2010年7月25日(日)すべてを良いものに

おはようございます。高知教会の久保薫です。
街でベビーカーに乗った赤ちゃんや、かわいい靴でよちよちと歩く小さなお子さんを見かけると、つい笑いかけたくなります。「うちの子もあんな時があったのよねぇ」と、ふと昔を思い出したりするのです。当時はそれなりに辛いことも苦しいこともあったはずですが、記憶のかなたの輝くような笑顔は、「もう一度見たい」と思わせるだけのものがあります。当たり前のことですが、子供は成長し、自分は年を取り、時間は待ってはくれません。人生の後戻りはできないのです。

何か、物事がうまくいかなくなったりすると、「どこでどう歯車が狂ったのか」と考えたりすることがあります。時間をさかのぼっていけばどこかに原因があって、それさえなければ今の自分は違っていたかもしれない、と思うのです。では、その前から人生がやり直せればいいのでしょうか。…それもそうとは言えないでしょう。たとえ一つの原因を取り除けたとしても、人間はまた、別のところで別の間違いを犯すものです。

よく、クリスチャンが励まされ、慰められるみ言葉として記憶しているものの一つに、ローマの信徒への手紙8章28節があります。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。「益」というのは、利益の益という字を書きます。良いこと、という意味です。これを私達は一言で、「万事を益として下さる神さま」というふうに言ったりします。全知全能の神さまが私達をとても大切に思って下さっているので、人生の途中でどんなに辛いことが起こっても、きっと後になってみれば、「ああ、こういうことだったのか」と、その意味を見つけることができる。そして、いい人生だった、と思えるようにして下さる、ということです。人生を間違ったところからやり直すのではなく、間違ったと思ったところも含めて、今までの人生すべてを良いものとして生かして下さるのです。
このローマの信徒への手紙を書いたパウロという人は、初期のキリスト教を広めたとてもえらい伝道者なのですが、しかしそのために、人から中傷されたり、何度も死ぬような目にあったり、と大変な思いもした人です。そのパウロがこう言っています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)そう、もし神がわたしたちの味方であるならば、人生を安心して歩むことができます。神さまがわたしたちの味方である、それを証明するものは、教会の屋根の上にある十字架です。パウロは先の言葉に続けてこう言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。

神は私たちすべての罪、過ちを無いものとするために御子イエス・キリストを十字架にかけられました。ですから、十字架は神さまが私達を愛して下さっているという何よりの証拠なのです。「キリストの十字架はわたしのためだ」このことを信じるすべての人にとって、神さまは味方であり、人生の万事は益となるのです。