2010年7月11日(日)真に疲れを癒す方
おはようございます。高知教会の久保浩文です。
日曜日の朝、いつもどのようにお過ごしですか。今、ラジオを聞いていらっしゃるということは、日曜日だからといって朝寝坊をしたりしない方ですね。あるいは、たまたま今日は早く目が覚めたから聞いて下さっているという方もいらっしゃるかもしれません。「たまの休みくらいぐっすり眠りたい」というのは、多くの方の正直な気持ちではないでしょうか。眠りたい、休みたい、という気持ちが強い、ということは、それだけ肉体的・精神的に疲れている証拠ではないかと思います。
私達の人生は、さまざまな重荷や苦労があります。追い立てられているような忙しさ、自分の思いや期待通りに事が運ばなかったり、人と人との様々な意見の食い違いなど、毎日が緊張の連続です。ストレス解消のために好きなスポーツや趣味に没頭したいと思っても、それには時間もお金も必要です。たとえ一時的に目前の問題から離れることができても、休みが終わればまた厳しい現実が待っています。そればかりか、今の時代、先行きに希望が持てず、安心して生活する、ということが難しくなってきています。
毎年のように自殺者の数が新聞紙上に発表されていますが、最近は十代や二十代の「人生これから」と思われる年代の若者の自殺者数が増加しているのをみて、とても心が痛みます。私も同じ年代の子を持つ親として「なぜ」「どうして」といろいろな思いにかられます。自分の人生そのものに失望、落胆するほどの疲れを、私達はどうすればよいのでしょうか。
イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28-30)と私達を招いておられます。イエス・キリストは、どのようにして私達の重荷を下ろそうとしておられるのでしょうか。イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われています。軛とは、牛や馬を働かせる時に体につける道具です。軛を負わされている間は休みなどはなく、働かなくてはいけません。しかし、イエスの軛を負い、イエスに学ぶ時には真の安らぎが得られるというのです。この言葉はちょっと矛盾しているのではないか、と思います。イエスに学ぶとは、イエスの弟子になって、イエスの教えという軛につながれてみなさい、ということです。軛につながれることは一見、不自由なように思います。しかしこれは、わたしたちの真実をあらわしています。生きることの重荷は依然としてそこにあります。消えてなくなるのではありません。けれどもその重荷が、イエス・キリストと一つの軛につながれることによって、軽くなるのです。イエス・キリストが共に人生を歩んで下さり、様々な労苦、重荷をともに背負って下さるからです
それは、自分ひとりで人生の重荷を負っていた時と比べて、はるかに心強いものです。重荷にあえいで伏せていた顔を上げて、前をみつめ、歩いていく勇気が与えられます。イエスのもとに来て、その軽くされた軛を負うとき、わたしたちの人生はそれまでとは違って、希望と安らぎのある人生となるのです。あなたもぜひ、イエス・キリストと共にある人生を歩んでくださるようにと祈ります。