2010年6月13日(日)永遠の命
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教会の教えを簡潔にまとめた信仰箇条に「使徒信条」と呼ばれる文書があります。その使徒信条の最後の言葉は「われはとこしえの命を信ず。アーメン」と結ばれます。
「とこしえの命」「永遠の生命」という言葉ほど、現代社会にとって魅力的であって、しかし魅力的でない言葉もないものだと思います。
どこの国でもそうだと思いますが、不老長寿を願う民話や昔話は少なくとも一つか二つはあるものです。人間は心のどこかで老いることを恐れ、長生きしたいと願っている、その気持の表れでしょう。平均寿命が今と比べてずっと短かった昔の時代には、長生きすること自体が幸せの印みたいなものだっただろうと思います。思い半ばに早々と世を去っていく人に比べれば、子供の成長を見守ることができ、孫の顔まで見ることができれば、それだけでもう言い残すことはないほどの幸せだったに違いありません。
ところが、長寿国といわれる国があっちでもこっちでも出現し、超高齢化社会が抱える問題が明らかになってくるに従って、老いて衰えることへの恐れや、人間としての尊厳をどう保つのか余計な心配の方が増えてきました。挙句の果てには、尊厳死や安楽死などと言う、大昔には考えもつかなかったような問題で、人々は頭を悩ましています。
もちろん、だからといって現代社会はもはや長寿を願わなくなったというわけではないでしょう。ただ、昔話の時代と違うのは、長生きすることが必ずしも幸せの印ではなくなってきていると言うことでしょう。長く生きて何をするのか、どのようなことのために長く生きるのか、その部分がはっきりしないために、長寿を願っていながらも、同時に長く生きることが不安の材料にもなっているという、とても矛盾した状況にあるということです。
そういう現代社会特有の状況のもとでは、「永遠の命」という言葉は、心に響かない言葉になってしまっているように思います。
ところで、キリスト教がいう「永遠の命」とはなんでしょうか。
聖書の中でこの言葉が「眠りからの目覚め」つまり「よみがえり」とともに登場するのは旧約聖書ダニエル書の12章2節が最初です。
「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。 ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」
ここで「永遠の命」は「永久に続く恥と憎悪」に対比されています。永遠の命はただ長く生き続けるということではなく、永久に続く恥と憎悪の的から解放された命のことです。
新約聖書の時代になると、「永遠の命を得る」という表現は「神の国に入る」というのと同じ意味になります。言い換えれば、神の御前で、神のご支配のものとで生きる命のことです。聖書が問題にしている永遠の命とは、命が長く続くか短いか、という問題ではなく、神の前で恵みと祝福に満ちた意味のある生き方を喜びをもって生き続けるということなのです。
ただ、この世で生きる命には残念ながら限りがあります。また、この世での祝福は完全ではありません。だからこそ、聖書は世の終わりに完成された神の国での命をこう描きます。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)