2010年6月6日(日)復活を信じる
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教が何を信じているのか、簡潔な言葉でまとめた「使徒信条」と呼ばれる信仰告白には「われは体のよみがえりを信ず」とあります。それは言うまでもなく、自分自身に関わる問題です。誰のことだかわからないけれども、とにかくそんなことがあるかもしれない、という希望的な憶測を述べているのではありません。このわたしが死んだとしても、世の終わり、終末の時に死んだ者のうちから、体をもってよみがえることを信じているのです。いえ、わたし一人が、というのではなく、聖なる公同の教会、聖徒のまじわりに属している者が、ひとり残らず体をもってよみがえることを信じているのです。
そして、この「からだのよみがえり」ほどキリスト教の信仰箇条の中で世の人々の嘲笑を買っている教えはありません。その理由は非科学的であるとか、理性を犠牲にしなければ到底受け入れられない教えだからと言われます。
確かに、信じがたいということに対しては、素直にそうであると認めざるを得ません。科学で説明ができないということに関しても、全くそのとおりであるとしか言いようがありません。
キリスト教がからだのよみがえりを信じているのは、科学から導き出された結論だからではなく、あらゆる命を生み出し、キリストを死者の中から復活させた神の約束だからです。
考えても見れば、現代科学は生命について解明し尽くしたのでしょうか。その発生の仕組みについて理解し、材料さえ与えれば人間のひとりや二人、造り出せるようになったのでしょうか。いいえ、そうではありません。しかし、科学が説明し科学によって再現できないからといって、ひとりの人間がここに生きていること、そして、これから先も人間が生まれ続けることを、ありえないこととして否定することはできないでしょう。現に科学という学問があってもなくても生命は誕生し続けているからです。
生命の誕生を受け入れることができるのなら、からだのよみがえりについても、それを受け入れることはそれほど無謀なことではないはずです。まして、神がキリストを死者の中から復活させたのですから、それを信じるクリスチャンにとっては自分たちのからだのよみがえりを信じることは、生命の誕生を信じるのと同じくらい当たり前のことなのです。
もっとも、からだのよみがえりを信じられないと感じるのは、科学的な理由からばかりではありません。人間の心理からいっても、からだのよみがえりはない方が都合がよいと感じられるからです。
考えても見てください。今でさえ貧富の差や差別や病苦や社会的不正に悩んでいる人間社会なのに、その問題が解決しないのに、また人間がよみがえって同じ苦しみを永遠に生き続けなければならないのだとしたら、誰だたって御免蒙りたいと思うのは当然でしょう。死は悲しいことですが、しかし、死があるからこそホッとできるというのも人間の気持ちです。
もっと現実的なことを言えば、死んだ人間がよみがえるとすれば、食糧問題や住居問題はどうなるのか、そんな問題だって出てくるでしょう。
けれども、そうした心配のためにからだのよみがえりをナンセンスなことだと決めつけてしまうことは本末転倒した考えです。
キリスト教がからだのよみがえりを信じるのは、キリストによる罪の赦しと罪からの救いと切り離すことができないからです。悲惨さの中によみがえるのでは決してありません。救われた世界の中に「わたし」という人間があらゆる悲惨さから解放されて生きるのです。その希望をキリスト教は信じているのです。