2010年5月2日(日)幸いな人
おはようございます。南与力町教会の山村貴司です。
私たちは、いろいろな困難に出会った時、いったい誰に寄り頼むでしょうか?友だちや知人でしょうか。それとも親しい仲間でしょうか?
今日は困難に出会ったある婦人のお話をします。その婦人の名はマリアと言い、それはイエスの母でした。
ある日、ある町で婚礼の祝宴がありました。母マリアはそこで祝宴の接待の役割を担っていました。
さて当時、祝宴の接待の役割は、特に“神聖な務め”とされ、婚宴の席で不足があることは許されませんでした。そして、特にその中でもどうしても不足してはならないものがありました。それは“ぶどう酒”でした。ぶどう酒が、当時、神からの祝福を特別に象徴する飲み物であったからです。
ところがこの時、そのぶどう酒が切れてしまったのです!ぶどう酒が切れる!これは、祝福の場としての祝宴の席では、絶対にあってはならないことでした。マリアは大変動揺するとともに、その窮乏にほんとうに困り果ててしまいました。マリアは困難に直面したのです。
この時マリアはどんな行動を取ったのか?マリアはほかの接待係には相談せず、何とイエスの所に行ったのです!ほかの係の人には相談せず、イエスの所に出かけたのです!
マリアは、いったいどうしてイエスの所に行ったのでしょうか?第一に考えられることは、この時すでにマリアの夫は亡くなっていたため、窮乏の時まず第一に声をかけるのは、長男のイエスだったということです。
けれどもここでは、こと接待についての窮乏です。もし接待のことで声をかけるなら男性にではなく、女性に声をかけるはずです。とすると、マリアは長男だから…という理由でイエスの所に行ったのではない、ということになります。マリアはいったいどんな理由でイエスの所に行ったのでしょうか?残念ながら、その理由は聖書には直接記されていません。
ある人は、それはマリアがイエスを何か特別な存在、何か特別な力ある存在と信じていたからだ。マリアがイエスを何か特別な力ある存在、神の子…と信じていたからだ!と言います。
しかし聖書を読む限り、この時マリアが、イエスをそのような存在と信じていたかどうかはわかりません。いったいどんな理由でイエスの所に行ったのか…それは今、私たちには隠されているのです。
しかし一つだけはっきりしている事実があります。それはマリアが、自分でどうすることもできない窮乏の中で、イエスに寄り頼んだという事実!!彼女が何もすることができない窮乏の中で、イエスに寄り頼んだという事実です!!そしてそれが彼女のすばらしさです。
私たちは、毎日の暮らしの中でさまざまな苦難や窮乏に出会います。私たちはそのとき、いったい誰に寄り頼んでいるでしょうか?私たちの内、とっさにイエスに寄り頼む人は幸いです。私たちの内、絶えずイエスに寄り頼む人は幸いです。そして、私たちがイエスに寄り頼む時、イエスは、必ず、私たちを取り巻く苦難や窮乏を取り除けてくださるのです。