2010年4月25日(日)罪の赦しを信ず
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教が何を信じているのか、大変簡潔な言葉で言い表した一連の信仰箇条に「使徒信条」と呼ばれる文章があります。その信仰箇条の中に「我は…罪の赦し…を信ず」という言葉があります。「罪の赦し」はキリスト教のすべてではありませんが、少なくとも重要な中心テーマです。
そもそもこの使徒信条にはイエス・キリストについて、「主は…十字架につけられ、死にて葬られ」と述べた部分があります。神の子であるイエス・キリストが人としてお生まれになり、十字架の死を苦しまれたのは、ほかならない人間の罪の赦しのためであったと聖書は語っています。もし、キリスト教が罪の赦しについて語らないとしたら、このキリストの十字架は宙に浮いてしまいます。
ところで、「罪の赦し」を信じるということには、自分が罪人であるという自覚が前提にあります。もちろん聖書によれば、人は皆、神の御前に客観的に罪人なのですから、自分が罪人であるという自覚は、本人の思い違いや妄想ではありません。もし、自分が罪人であるという意識がただの過剰な妄想だとすれば、必要なのは罪の赦しではなく、その思い誤った妄想を訂正してあげることです。そうすれば、罪責感の苦しみから人を解放することができます。
事実、人間は安易な方法で心の平安を保とうとします。人間誰でも同じ過ちを犯すものだから仕方がない、と罪を一般化することで罪の感覚を薄めようとします。あるいは、そんなことで良心の呵責を感じるのは、あなたの心が繊細すぎるからだ、とその人の罪に対するセンサーが過敏であることのせいにしようとします。あるいは、そもそもそんなことは罪なんかではない、とできるだけ罪を過小評価して何でもないことのようにしようとします。
「罪責感」がただの妄想からくる苦しみであるなら、そうした安易な慰めで心の平安を得ることができるでしょう。けれども、罪が現実のものであるなら、そうした安易な方法は気持ちをごまかすだけで、根本の解決には何の役にも立ちません。
聖書が語っているように、罪の問題が現実のものであり、罪責感をごまかすことができないとすれば、解決の道は二つしかありません。
一つは自分で罪を償って、傷ついた正義を修復することです。しかし、それができなければ、もう一つの道しか解決の方法はありません。
それは誰かが自分に代わって罪を償い、正義を回復してくれることです。そして、その人のおかげで、自分の罪の責任が二度と問われる事はないと、罪の赦しの宣言をいただくことです。
「罪の赦しを信ず」とは、キリストがわたしに代わって罪を償い、正義を回復してくださったということを信じることと、そのキリストのゆえに罪の審判から自分が解放されたことを信じることです。それは、ただ、ひたすら恵みとして赦しが与えられたことを信じる信仰です。
罪の赦しを信じることは、また、古い自分と決別し、新しい自分に生きることです。完全に赦されることがなければ、誰も過去から解放されることはありません。完全な赦しを確信してこそ、安心して新しい一歩を踏み出すことができます。完全な赦しを信じてこそ、未来に向かって自由で恐れることのない歩みを続けることができるのです。
また、罪の赦しを信じるとは、ただ過去の罪のことだけを言っているわけではありません。キリストの救いのゆえに全生涯にわたって赦され続けることを信じることです。赦されていると自覚するからこそ、また他人に対しても寛容な態度を持ち続けることができるのです。