2010年4月18日(日)聖徒の交わり
おはようございます。山下正雄です。
古くからキリスト教会が自分たちの信仰を言い表した信仰告白文に「使徒信条」と呼ばれるものがあります。その使徒信条の言葉の中に、「我は…聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」とあります。
「聖徒の交わり」という言葉は、耳で聞いただけでは分かりにくい言葉です。学校の生徒が交流を深めるために開く懇親会や親睦会のことを言っているのではありません。
「聖徒」とは「聖なる者たち」のことです。「聖なる者たち」というと、何か特別に清い人々、聖人君子か聖者をイメージするかもしれません。しかし、聖書の中では、キリストを信じキリストと結びあわされた者たちを「聖なる者」「聖徒」と呼んでいます。言いかえればクリスチャンは皆信仰者としての経歴にかかわりなく、例外なく「聖徒」なのです。それが聖書が使う「聖徒」という言葉の意味です。
ところで、「聖徒の交わり…を信ず」という言葉は、後になってから信徒信条に加えられた言葉です。いつ、どこで、何の必要があってその言葉が加えられるようになったのかは定かではありません。ただ、「聖徒」という言葉の意味が、聖書が使っている「聖徒」という言葉と同じ意味で使われているとすれば、ここでいう「聖徒の交わり」とは、直前に出てくる「聖なる公同の教会」を別の表現で言い換えたと理解することができます。
「聖なる公同の教会」の本質は「聖徒の交わり」です。教会とは教会の建物のことでもなければ、教会という制度のことでもありません。もちろん、それらも「教会」と呼ばれることもあります。しかし、使徒信条が「教会」を考えるときに、教会は本質的に有機的な聖徒の交わりなのです。
「聖徒の交わり」としての教会には、二通りの方向性があります。
一つは、キリストと信徒との交わりです。聖書の中では、この聖徒の交わりは、ぶどうの木と枝の関係にたとえて描かれます(ヨハネ15:4-10)。信徒一人一人はぶどうの木であるキリストにつながる枝なのです。何よりも聖徒の交わりは、ぶどうの木であるキリストとの交わりの中で成り立つものです。「聖徒の交わり」とは、キリストを抜きにした信者同士の交わりのことではありません。枝が幹から離れては実を結ぶことさえできないように、召しだされた信徒一人一人によって構成される教会も、幹であるキリストとつながっていなければ実りをもたらすことができないのです。
もう一つの方向はキリストを介して、信徒同士が互いにもつ関係です。聖書の中で、この交わりはキリストを頭とした体のように例えられます(1コリント12:12-30、エフェソ4:12-16)。それぞれの部分が頭であるキリストを抜きにして存在しえないという点では、先ほどのぶどうの木と枝の関係と同じです。しかし、体のたとえはそれに加えて、それぞれの部分が結び合わさって一つの体を作り上げていくことが教えられています。聖徒の交わりはあってもなくてもよいような関係ではありません。一つの体である教会を形作るのに、一つの部分はキリスト介して他の部分を必要としているのです。
教会とはこのような聖徒の交わりなのです。
ところで、今話してきたことは、同じ時代、同じ場所で生きる信徒同士の関係というイメージであったと思います。しかし、聖書が語る教会は、過去、現在、未来、さらには地上と天上を貫く一つの教会です。聖徒の交わりというときにも、ただ現在の地上の教会のことだけを言っているわけではありません。そのように過去、現在、未来、さらには地上と天上を貫く大きな広がりの中に聖徒の交わりは置かれているのです。