2010年4月4日(日)本当に主はよみがえられた
おはようございます。山下正雄です。
きょうはキリスト教会にとって最も大切な記念日です。というのは、きょうはイエス・キリストの復活を記念する日だからです。
キリスト教会が一週間の終わりの日ではなく、週の最初の日、日曜日に礼拝を守るのも、実はイエス・キリストの復活と関係があります。キリスト教会は毎週、主イエス・キリストが死者のうちからよみがえられた日曜日に礼拝を守り、そして、年に一度、イエス・キリストが復活された日を覚えて、特別な記念日としているのです。
イエス・キリストが葬られた墓が空っぽになったこと、そして、復活したキリストに大勢の人々が出会ったことは新約聖書のあちこちに記されています。しかし、そのことが事実であったのかどうか、残念ながらそれを今となって証明する手立てはありません。いえ、その当時とても証明することは難しかったでしょう。イエス・キリストと寝食を共にした弟子たちでさえ、イエス・キリストが葬られた墓が空っぽであることを婦人たちから知らされて、「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と聖書は記しています(ルカ24:11)。
それほどに復活という出来事は、常識で考えてあり得ないことです。普通はあり得ないことですから、信じることもできないことです。キリストの復活は実際にあったのだ、いや、そんなことはありえない、という議論はどこまでいっても平行線をたどるだけです。
ただし、まぎれもない事実なのは、イエス・キリストの間近にいた弟子たちが、最初はキリストの復活を信じなかったこと、しかし、それにもかかわらず、ついには命の危険を冒しても復活のキリストを述べ伝える者となったことです。このことは否定できない事実です。
弟子たち自身の証言によれば、それは彼ら自身、復活のキリストを目撃し、復活のキリストに出会ったからです。それと同時に、このキリストの復活が何を意味しているのか、キリストの復活の意義を知ったからです。
たとえ、復活という出来事を常識として受け入れることができないとしても、その復活のキリストを目撃したという弟子たちの大きな変化を取るに足りないこととして無視することはできません。もし、復活のキリストに出会わなかったとしたら、十字架のキリストを前に逃げ出した弟子たちが、どうして死も恐れない勇気をもつようになったのか説明がつきません。仲間の婦人たちの話を馬鹿げたことだとして信じなかった弟子たちが、どうして命がけで復活について大胆に語り出したのか、納得できる説明がありません。
死者の中から人がよみがえるという出来事は、それ自体が大事件です。そのような復活を身をもって経験したイエス・キリストに直接出会ったということは、弟子たちの人生を一変させるほどの大事件であったことは疑う余地もありません。
しかし、もっと大切なことは、このキリストの復活を弟子たちがどのような意義ある出来事として受け止めたかということです。言い換えれば、復活の意義をどのような言葉で伝えたのかということです。
使徒パウロはキリストの復活の意義をその手紙の中でこう語っています。
「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(1コリント15:20-22)
復活のキリストこそ、わたしたちをまことの命に生かすお方なのです。