2010年2月21日(日)かしこより来りて

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教は、イエス・キリストを通して神がその昔なしてくださった救いの御業を、過去の出来事として信じているだけではありません。その救いが今ここでもまた有効であり、意味があることを信じています。しかし、キリスト教は過去と現在にだけ目を注いでいるわけではありません。未来にも目を注いでいます。

使徒信条と呼ばれる信仰告白の言葉によれば、復活されたキリストは天に昇り、神の右に着座されましたが、そのキリストについて「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」と述べられています。

つまり、キリストは、天に帰って行ったのと同じように、またこの地上に来てくださるのです。
かつてキリストと地上での生活を共にした弟子たちが、天に昇っていくキリストを見上げていると、天の使いがこう告げました。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)
イエス・キリストご自身もご自分が再びやって来られることを弟子たちに何度も約束されました(マルコ13:26、マタイ25:31以下、ヨハネ14:3)。
もっとも、天にお帰りになったキリストが再び地上にやって来られることを期待しているという、ただそれだけのことならば、おとぎ話の世界と変わりがありません。
問題は何のためにキリストは再びこの地上に戻ってこられるのか、ということです。

その理由を聖書は様々な角度から記しています。それを一言でいえば、神の国の完成のため、救いの完成のためと言うことができるでしょう。しかし、使徒信条では特にあるひとつの目的に目を注いでいます。それはキリストが生きている者と死んだ者とを裁くために再びやって来られるということです。
最後の審判について厳粛に受け止めることは、すべての人にとって大切なことです。神をも人をも恐れることがなければ、人間の自己中心的な生き方はとどまるところがなくなってしまいます。聖書は責任ある生き方を一人一人に求めて、こう語っています。

「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(2コリント5:10)

もっとも、クリスチャンたちがイエス・キリストについて「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」とその信仰を言い表すのは、おのおの自分自身の生き方に責任をもつようになるため、というばかりではありません。
この地上での生涯に経験する様々な悪と不正とのために希望を失わないためでもあります。クリスチャンであるというただそれだけの理由で受ける様々ないわれのない苦しみの中で、救いの確信が揺れ動くことのないためです。
世の終わりの時、救いの完成の時に、神はキリストをとおしてこの世を裁き、ご自身の正義と救いとをうちたててくださるのです。
キリストが終わりの日に来て正義を実現して下さると約束してくださっているからこそ、この将来に約束された希望に支えられて、今を忍耐深く、また力強く生き抜くことができるのです。

初代教会の人々は「マラナ・タ(主よ、来てください)」、「アーメン、主よ、来てください」(1コリント16:22、黙示録22:20)と口にしましたが、それはかしこより来てくださるキリストに対する、心からの期待であり願いなのです。