2010年2月14日(日)父なる神の右に座すお方
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教会が自分たちの信仰の告白として受け継いできた言葉に、使徒信条と呼ばれる短い信仰告白の言葉があります。その中に、死者の中から復活し天に昇られたキリストは、父なる神の右に坐しておられると述べられています。
復活して天に昇られたキリストが神の右に坐しておられるという、この信仰告白の言葉は、新約聖書の様々なところで語られている言葉そのものです。
ペトロはその手紙の中でこう書いています。
「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(1ペトロ3:22)
パウロもまたコロサイの教会の信徒たちに、上にあるものを求めるようにと勧めた時に、「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(コロサイ3:1)と書いています。
キリスト教会最初の殉教者ステファノは、今にも自分を殺そうと敵意を現すユダヤ人たちを前に「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」とさえ言いました。もっとも、ステファノが見たのは着座しているキリストではなく立っているキリストでした。
それはさておくとして、キリストが父なる神の右に坐しておられる、というのはとても具体的なイメージです。確かに復活のイエス・キリストは体をもっていらっしゃったのですから、右手、左手、右側、左側といえるものがあったわけです。しかし、父なる神は、父とは呼ばれるものの、人間の父親の様に右手もなければ左手もあるわけではありません。第一、どこにでもいらっしゃるお方ですから、その右に座るというのはあくまでも象徴的なイメージでしかありません。
では、何を象徴して「右に座る」と言っているのかといえば、先ほど引用したペトロの手紙には、キリストが神の右におられることと、天使や権威や勢力が、キリストの支配に服していることとが並列して語られていました。
同じように、エフェソの信徒への手紙の中でも、キリストが神の右に着座されることと、キリストがすべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれていることとが並列して語られています(1:20-21)。
つまり、復活し、昇天されたキリストが全能の父なる神の右に坐しておられるということは、父なる神があらゆる支配をキリストの手にお委ねになったということなのです。
キリストこそがわたしたちの主であるお方です。
そうであればこそ、最初の殉教者ステファノは自分を力と脅しによって屈服させようとする人々を前にして、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と語ったのです。つまり、主イエス・キリストこそが一切の権能をもったお方であり、このお方にこそ命をかけて従って行こうと決意したのです。
もっとも、キリストが神の右に坐しておられるという信仰を告白することは、殉教の決意を表明するということではありません。
むしろ、どんな窮地にあってもキリストの支配が及ばないところがないという確信を生み出す信仰です。あらゆる権威や勢力はキリストの支配のもとに置かれているからです。
パウロは手紙の中でこう書いています。
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)