2010年1月31日(日)自分を愛する
おはようございます。清和女子中高等学校の内山輝之です。
隣人を自分のように愛するとは、自分を愛するように隣人を愛するということですが、中学校や高校時代は、この前提の「自分を愛する」ということが出来ません。私が清和に赴任して20年以上になりますが、20年前も現在も、国語の授業で自分のことについて書かせると、ほとんどの生徒は自分のことが嫌いだと書きます。自信が無いということが大きな要因ですが、小学校や中学校で勉強につまずいたり、友だち関係で悩んだりして、欠点ばかりが気になり、自分は何をやってもだめだと思い込んで、自分のことを嫌いになってしまうことが多いようです。
私がこのような生徒たちにできることは、朝のチャペル礼拝や国語の授業を通して、聖書の言葉を用いたり、自分の経験を話したり、小説やエッセーなどの文学作品を紹介したりして、自分を愛し、周りの人を愛することの大切さを伝えることです。清和の良いところは、人数が少ないから、生徒みんながそれぞれの役割を果たさないとクラス運営や行事が進まないので、それぞれが役割を果たしていく中で自信をつけて成長していくという点です。勉強面でも、授業中の一人ひとりの意欲や理解度が手に取るようにわかります。もちろん、分かったからと言って、一人ひとりの学力をどんどん伸ばすことができるというわけではありません。それでも、すべての教師が生徒一人ひとりのことを理解しているということは、生徒にとっては幸福なことだと思います。清和が神さまによって作られた学校であり、私はその神さまの働きのために少しでも役に立つことができればと考え、努力していきたいと考えています。
私は生来の怠け者であり、優柔不断で自分勝手でどうしようもない欠点だらけの人間です。中学・高校時代は一人で悩んでばかりで何もせず、ほんとうにもったいない時間を過ごしました。しかし、キリスト教を信じるようになってから、そんな自分でも神さまは見捨てずにいつも守り、愛していてくださることを知って、初めて生きることが楽になりました。神さまの教えに従って生き、神さまの栄光を表すという生きる目的が分かったからです。もちろん、それは簡単なことではなく、逆に毎日多くの罪を犯し続けており、ある意味では余計生きることが苦しくなっているのですが、それでも以前のように後ろ向きな考え方をすることはなくなりました。悩んでばかりだった青春時代も自分にとっては必要な時間だったと考えるようになりました。
他の人とは違う生き方をしてきたことも、だからこそ人生に対して他の人とは違う考え方が出来るはずだと思っています。他の先生とは違う考え方や生き方を生徒たちに示すことが出来るはずだと信じています。それでこそ、自分がここに存在している意味があるからです。欠点も一杯ありますが、他の人にはない良さも持っていると勝手に思い込んでいます。そうでなければ、教師という仕事を続けることは出来ないと思います。欠点だらけの自分だけれど、自分なりに一生懸命生きているではないか、と考えられるようになり、生徒たちに対しても、次のように断言しています。「先生は欠点もあるし、ちょっと変わっていると自分でも思うけど、それでも自分のことが大好きだ」。そして、次のように続けます。「皆さんは自分の欠点が気になって仕方が無いかもしれない。それでも、自分のことを嫌いにならないでください。欠点があることも含めて、自分を好きになってください。そして、周りの人も同じように好きになってください」。