2010年1月24日(日)国語の授業

おはようございます。清和女子中高等学校の内山輝之です。
私は現在ミッションスクールである清和女子中高等学校で国語を教えています。国語という教科は、漢字やことわざ、書物や作者の名前なども覚えさせなければいけませんが、それ以上に作者の考え方や主人公の生き方を学ぶことによって、生徒たちが自分の考え方や生き方について思いを巡らせるように心掛けています。

たとえば、芥川龍之介の『トロッコ』という作品を授業で行うとします。小学生の少年がトロッコに乗るのが楽しくて、二人の大人と遠くまで行ってしまい、そこから一人で帰って来なければならなくなる話です。次第に日が暮れてくる中、泣きながら線路伝いに走り続けて、やっとの思いで自分の家にたどり着くのですが、その時の恐怖や不安は大人になっても忘れることはありません。
主人公は成長して東京の雑誌社で校正という文章をチェックする仕事についていました。おそらく小説家を目指していたのだろうと想像されますが、その夢をかなえることが出来ず、妻子を養っていくため、小説家になることをあきらめて心ならずも今の仕事をしていると考えられます。「自分はこのままこの仕事を続けて年をとり、死んでいくのだろうか。」という思いが、真っ暗な中を走り続けた小学生のときの不安や恐怖をよみがえらせます。夢や目標を持たずに生きていくということは、真っ暗な中を走り続けるときと同じような不安や恐怖を感じるわけです。「自分は何のために生きているのだろう。」「これからどうなるのだろう。」人が生きていくには夢や目標が不可欠です。それは大きなものでなくてもよく、自分がそれに向かって頑張れるものであればいいのです。『トロッコ』の主人公も、小説家になることをあきらめた後、気持ちを切り替えて、校正の仕事の中や家族との生活の中に夢や目標を見つけるようにすれば良かったのではないかと思います。

これは、皆さんの生活にも当てはまります。目標や夢を持たなければ、わざわざ努力して勉強しようとは思いませんね。というふうに、少し強引と思われるかも知れませんが、生徒たちのことに関連させて考えさせていきます。さらに進めていって、自分自身の学生時代に結び付けて夢や希望を持たなかったために勉強しなかったことや、進路のことを先延ばしにしたために、いざ直面しなければならなくなった時に恐怖を覚えたこと、教会に出席するようになって、「自分は何のために生きているのだろう。」と初めて真正面から深く考えるようになったことなどの話をします。

作品が古文や漢文であっても、同じやり方で進めています。時代や国が違っても、考え方や生き方について学ぶことは多くあります。むしろ千年、二千年の間、無くなることなく伝えられているそれらの作品の中にこそ自分の人生に役に立つことはたくさんあります。もちろん、『聖書』の御言葉もそうです。と授業の話は続いていきます。自分自身の中学・高校時代は、生徒たちにとっては完全な反面教師ですが、現在の自分がそうならないように御言葉に従った毎日を送りたいと強く思わされています。

授業や朝のチャペル礼拝では、さらに次のように続けます。「どうしたらいいかわからなくなったとき、一人で悩まず、誰かに相談してください。何のために生きているのか分からなくなったら、聖書を読んでください。教会に行ってください。清和に顔を出してください。くれぐれも一人で悩みを抱え込まないようにしてください。一度きりの人生、自分らしく前向きに生きていってください。」そして、フィリピの信徒への手紙3章の13節と14節、「なすべきことはただ一つ、後ろものものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」につなげて終わります。