2010年1月10日(日)見ないで信じる人は幸いである
おはようございます。私は山田教会の会員で、泥谷逸郎と申します。
さて、私たちが信じている事柄には、見えるものと見えないものがあります。見えるものは、わざわざ信じていると言わないですが、信じますし、信じています。こういうわけで、見えるものを信じるのは易しいです。見えないものの中にも、いちいち信じると言わなくても、当然のごとく信じていることがあります。空気はどうでしょうか。何も疑わず、いちいち問うこともせず、毎日空気を吸ったり、吐いたりして、生きています。空気は、見えませんが、身体の命のためには欠かすことができないものです。空気は、命の源です。食べ物や水は、こられが無くなっても直ぐには死にません。しかし、空気が無くなれば、忽ち死んでしまいます。空気の他にも、見えないものの中には、生きるために欠くことができないものは沢山あります。私たちの体内に目を向けて見ましょう。脳はどうでしょうか。心臓はどうでしょうか。これらのものは、身体の中にありますが見えません。しかし、私たちの身体の命のためには必要不可欠なものです。これらのものは、身体の命の源です。
空気や水を創造し、私たちが生きていくことが出来るようにしてくださっているお方がおられます。創造主と呼ばれる、イエス・キリストの父なる神さまです。この方が、私たちの命の根源であられます。私たちが生きていくことができるようにしてくださっているのは、この方です。私たちが母の胎内に宿っているときに、脳や心臓を形造ってくださったのは、この創造主なる神さまです。この神さまが、私たちが母の胎の中にいる間に肉体だけではなく、霊魂を造ってくださいました。聖書の中に次のようなお言葉があります。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。…あなたには、わたしの骨も隠されていない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」(詩編139:13、16)。また、こうも言われています。「霊は与え主である神に帰る」(コヘレト12:7)と。ですから、次のようなイエス・キリストのお言葉は、本当に真理だと思います。「人の生きるのはパンだけではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」言葉は見えませんが、力があります。生かす力があります。ある場合には、殺す力があります。見えないということで、存在してあるものを否定することは愚かであり、滅びを刈り取ることになる場合があります。
神さまのお言葉の中に、こういうお言葉があります。「聞く耳、見る目、神がこの両方を造られた」と。聞く耳のある人は、創造主があなたに下さった耳を用いて、イエス・キリストの救いの恵みのお言葉、すなわち福音の言葉を聞きましょう。見る目のある人は、創造主なる神があなたにくださった目を使ってキリストの救いの恵みを頂いた幸いな人生を見ましょう。救いの恵みにあずかった人は、賢い妻を得、従順な子をそだてます。そして老人は孫を輝く冠とするでしょう(箴言17:6)。
このように、イエス・キリストを信じる信仰によって見えない神を愛する人は幸いを得ます。まことに、神は見えなくても、キリストによって神を信じる人は、このように幸いを得ます。神を愛する人は、「信仰の実りとして魂の救いを受け」ます。