2009年12月27日(日)今、あなたの救いを見た
おはようございます。山田教会牧師の牧田吉和です。
この年もあとわずかとなり、今日はこの年の最後の日曜日です。年の終わりは大切な意味を持っています。年の終わりは、私たちの人生にも終わりがあることを考えさせてくれるからです。この年の最後の日曜日である今朝は、あらためて人生の終わりがあることを見つめつつ、人生の意味について考えてみたいと思います。
今朝の聖書に一人の人物が登場しています。84才で、当時で言えば文字通り人生の終わりに立っている老人です。名をアンナという女預言者でした。やもめの女性です。聖書の中ではここしか出てきません。地味な存在で見過ごしてしまうような、しかし深い印象を与える人物です。私も個人的には非常に心惹かれる聖書の女性です。彼女は7年間だけ夫と住み、84才までやもめ暮らしでした。当時の結婚年齢から考えて、恐らく60年間ぐらいはやもめ暮らしだったと思います。イスラエルではやもめは特に弱い立場でした。ですから60年間のやもめ暮らしというだけで、彼女の苦労の多い、悲しみと苦しみのいっぱい詰まった人生を容易に想像できます。そのような人生を背負いつつ、人生のたそがれの中で彼女は立っています。私たち自身の人生と重ね合わせてそっと寄り添いたくなるような女性です。
しかし、このアンナは両親に抱かれて清めの儀式のために神殿に連れてこられた幼子イエスにお会いします。人生の終わりが近い老人と幼子イエスとの出会いがここにあります。聖書は同じ場面でもう一人シメオンという老人を登場させています。聖書はそのシメオンに救い主イエスとの出会いの意味を語らせています。シメオンはこう言っています。「わたしはこの目であなたの救いを見た」、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」。これはそのままアンナの思いを表しています。アンナも主イエスに出会って、神を賛美して人々にそのことを語っているからです。まったく同じ気持ちであったと言って良いでしょう。
「今こそ、安らかに去ることができる人生」とは何と素晴らしいことでしょうか。「安らかに去る」とはもう悔いはない、ということでしょう。握るべきものは握った。自分の人生はこの一つのことによって意味をもったということでしょう。人間の目から見たなら彼女の人生は挫折した、悲しみと苦労の多い人生だったかもしれません。しかし、たとえ人生の終わりであったとしても、キリストに出会い、キリストに結び合わされた時、彼女の人生は意味あるものになったのです。事実、彼女はこの幼子こそ救い主であると証言する大きなそして光栄に満ちた役割を担ったのです。そして今も聖書を通してその役割を担い続けているのです。神の計画は人間の思いをはるかに超えるものなのです。
私は彼女の人生を思うとき、クリスマスツリーを思い起こします。ひとたびスイッチが入り、電気が流れると、真っ暗であったものが一瞬にして輝き始めるのです。アンナの84才の人生もそれまで暗いままであったかもしれません。彼女の人生は終りを迎えています。しかし、イエスキリストに出会い、キリストに救いを見出した時、彼女の人生はキリストを証言する器として輝き始めるのです。人生の全体が深い意味を持つものとなったのです。
私たちにとっても自分の人生は何であったのかと思うときがあるでしょう。あるいは自分の人生は意味があるのか、と思うときもあるかもしれません。しかし、この年老いた女性アンナは人生の意味がどこから生まれるのかを私たちに証言しています。どのような人生であったとしても、イエス・キリストを信じ、キリストに従って歩み始める時、その人生は輝き始めることを私たちに指し示しているのです。