2009年12月20日(日)喜びの泉としてのクリスマス
おはようございます。元気にお目覚めでしょうか。山田教会牧師の牧田吉和です。
クリスマスは12月25日ですが、多くの教会では、今日、クリスマス感謝礼拝がささげられることでしょう。
今朝、聖書は「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と力強く語っています。
けれども、当時これよりももっと大々的に「大きな喜び」のキャンペーンがなされていました。キリストが誕生されたのは、ローマ皇帝アウグストスの時のことでした。この皇帝アウグストスは「救い主」と呼ばれていました。一つの地域ではアウグストスの誕生日をもって新年とする議決さえなされました。アウグストスの誕生日は、この世にとって生命の始まりであり、すべての人の幸福と喜びをもたらしたからだというのです。ですから、アウグストスの誕生日は、喜ばしい音づれを祝う祭りだというのです。いわばお上肝いりの、華々しい大キャンペーンがなされていたのです。
仰々しいキャンペーンにはいつも注意が必要です。何かがその裏にあるかもしれないからです。実際当時は繁栄した時代でした。けれども、歴史の中で道徳的に腐敗した有名な時代でもありました。人の命は軽視され、殺人、離婚は言うに及ばず、性的な乱れもきわまった爛れた時代でもあったのです。生命の始まりどころか、生命の終わりを意味する時代でした。
御使いが「大きな喜びを告げる」と語った時、それは大キャンペーンに対する挑戦の言葉でもあったのです。それは本当に大きな音ずれですか? 本当にアウグストスは救い主ですか?と問うているのです。そうではなく、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」、この幼子こそ、救い主であり、大きな喜びをもたらすお方なのだ、こう語っているのです。ここに本当の喜びの泉があるのだ。こう御使いは羊飼いたちに告げているのです。
私たちはあらためて考えさせられます。本当の幸せはどこにあるのだろう。どこに本当の喜びはあるのだろう。私たちは今ありとあらゆる幸せのキャンペーンに取り囲まれています。どれもこれも華やかで私たちを魅惑するものばかりです。しかし、御使いの言葉は私たちに幸せはもっと別の所にあるのではないか、喜びの泉は人々の気付かないところにあるのではないか、こう語りかけてくれています。
この幼子イエスは粗布にくるまった飼い葉桶の中に眠っています。御使いはそれをしるしだと語ります。何のしるしでしょうか。それは十字架のしるしを意味しました。十字架は私たちのためにささげられた犠牲の死を意味しました。それは御自分の独子を犠牲にしてでも私たちを救おうとされた神の愛を意味しました。そこに愛がある時、しかも究極的な神の愛がある時、そこに喜びの泉が湧き溢れるのです。事実、貧しくそして人々から認められてもいなかった羊飼いたちがこの幼子の下に出かけた時、聖書は、彼らが喜びに溢れて神を賛美しながら帰って行った、こう証言しています。
華やかな幸せのキャンペーンの中にではなく、幸せはもっと別のところにあるのではないでしょうか。喜びはもっと慎ましい姿の中にあるのではないでしょうか。聖書は、このクリスマスの時に、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている幼子」の中に喜びの泉があることをはっきりと指し示しているのです。