2009年12月6日(日)キリストを迎える心

おはようございます。山田教会牧師の牧田吉和です。
今日は12月の最初の日曜日です。「12月」そして「キリスト教」と言えば、誰しもがクリスマスのことを思い浮かべることでしょう。教会はこの季節を「アドベント」と呼びます。「アドベント」とはもともとラテン語で「訪問」とか「到着」を意味します。ですから、今の季節は、キリストがこの世においで下さったこと、クリスマスを覚えつつ過ごすのです。私たちも、今朝からクリスマスを待ち望みながら、聖書の言葉に耳を傾け、キリストを心の中にお迎えする備えをしたいと思います。

今朝の聖書の言葉には「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」という言葉があります。この言葉はクリスマスにもピタリと当てはまります。クリスマスは救い主キリストが私たちのところにおいでくださり、戸をたたいてくださったことを意味するからです。

今朝の聖書に関連して一つの出来事を思い起こしています。牧師養成機関である神学校の寮で生活していた時のことです。各部屋が個室になっていまして、何人かの学生は部屋の中にいてもいつもカギをかけたままでした。ある時、学生の間で、そのことが話題となり、「なぜ鍵をかけているのか」というかなり激しい議論になりました。いつもカギがかけられていると、自分たちが拒否されているような気がするという言い分でした。鍵をかけるかどうかは自由ですが、確かにいつも鍵をかけ出したら健全な状態ではありませんでした。どんどん内に閉じこもり、問題が深刻化すると窓もカーテンで締め切ってしまう事さえ起こりました。そのような議論をしている時、ひとりの学生がポツリと言いました。「僕はいつも少しだけドアを開けておくようにしているよ。いつ訪ねてくれても良いように」。この言葉が今も不思議に心に残っています。

キリストがこの世を訪問して戸口に立って下さった時、聖書によればやはり戸口は閉じられていました。誕生のその時から、キリストは締め出された存在でした。臨月間もない母マリアと夫ヨセフには、宿屋に泊まる場所さえなかったのです。誕生した幼子イエスはかろうじて飼い葉桶の中に眠る場所を得ただけでした。それどころか、もっと激しい拒否をも経験されました。東方の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」と言って訪ねてきた時のことです。時のユダヤの王ヘロデは、自分の王位が脅かされるのを恐れてベツレヘムとその周辺一体の2才以下の男の子とを皆殺しにさせたのです(マタイ2:16)。キリストは誕生の時から拒否され、命をつけ狙われたのです。そしてついには文字通り十字架の死という形で排除されたのです。

しかし、なぜキリストはこの世においでになり、戸口に立たれたのでしょうか。実は、キリストは、戸を閉じて頑なに罪の中にとどまる私たちを救うために、初めから拒絶されることを知りつつ、十字架の死を覚悟して、いいえそのことを目的としてこの世においでになったのです。そこにキリストの驚くべき愛が示されているのです。

イエス・キリストはお語りになりました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」アドベントのこの時、わたしたちは、頑なに鍵をかけるのではなく、少しドアを開いておきたいと思います。そして、部屋の中にもう一つ椅子を用意しておきたいと思います。そのとき、主イエスは約束の通り、私たちの中に入ってくださり、わたしたちは主と共にある喜びと平安に生きることができるのです。