2009年11月29日(日)主は甦られた

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教にとって十字架はシンボルのような存在です。人々は教会の屋根に掲げられた十字架を見て、ここがキリスト教会であると理解します。しかし、聖書が語っているのは十字架のキリストだけではありません。復活のキリストについても同じくらいたくさん語っています。

確かに新約聖書の中の手紙を一番多く書いたパウロという人は、コリントの教会に宛てた手紙の中で「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と書いています(1コリント2:2)。しかし、その同じパウロは同じ手紙の中で、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは」と記して、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」を挙げて、キリストが復活された事実の重要性を強調しています。
また、十二人の使徒に欠けが生じた時、その欠けた人員を補うための人選を行うにあたってペトロはこう言いました。

「だれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒言行録1:22)

使徒たちが伝えたのは十字架のキリストだけではなく、死んで甦った復活のキリストでもあったのです。彼らは復活のキリストの目撃証人なのです。

キリスト教会に伝えられた古い時代からの信仰告白である使徒信条の中でも、パウロの言葉を繰り返すように「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちより甦り」と語られます。

もっとも、キリストの葬られた墓が空になっていた、復活のキリストに出会った、という事実を証言するだけではただの不思議な話です。確かに、後にも先にもたったの一回しか起ったことのないキリストの復活の出来事は、どんなに説明をしようとしても説明しきれるような事件ではありません。
「三日目に死人のうちより甦り」と使徒信条の中で語るときに、そこには当然、そのことが起った意味が了解されているということです。どのようにキリストが甦ったのかということではなく、何故、何のためにキリストは死者の中から甦ったのか、復活の意味付けこそが大切なのです。

先ほども引用したパウロの手紙の中で、キリストの復活の意味について、こう記されています。

「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:21-22)

罪のために死ぬべき身体が、まことの命に与るべきものとされるために、キリストは死者の中から初穂として甦られてのです。
聖書は世の終わりの時に与えられる永遠の命について語っています。キリストの復活が事実としてあるからこそ、永遠の滅びから解放され、神の御前でとこしえに生きるという永遠の命の保証をいただくことができるのです。
主イエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」とおっしゃいました。そのお言葉はご自身の復活によって一層確かなものとなったのです。