2009年11月22日(日)十字架の死と葬り
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教にとって一番大切なのは、キリスト教という名前が由来しているイエス・キリストについての理解です。キリストというお方について何も語らずに、キリスト教を理解することはできません。
古代のキリスト教会が生み出した使徒信条と呼ばれる信仰告白の中でも、当然イエス・キリストに関するくだりに一番たくさんの言葉が割り当てられています。
しかし、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と続く言葉は、ただイエスについての歴史を語っているに過ぎません。これはとても不思議なことです。本来ならイエスの十字架がどんな意味を持っているのか、イエスの死がどんな意義があるのか、本来なら、その点こそ詳しく述べられて然るべきです。なぜなら、紀元一世紀前後に十字架で処刑され、死んだ人たちはイエス・キリストのほかにも大勢いたからです。少なくとも福音書の中では、イエスと共に、イエスとはまったく関係のない「強盗」と呼ばれる人が、二人十字架刑で処刑されました。言ってみれば、その二人だって「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」た人たちなのです。その人たちの十字架や死と、イエス・キリストのそれとはどこがどう違うのか、キリスト教はイエス・キリストの死について何を信じているのか、そのことが語られなければ、一体何を信じているのかさっぱり解りません。
ところが、使徒信条では肝心な意味付けは何も語られないままに、イエスの生涯の歴史が淡々と述べられるだけです。
なるほど、神の目から見れば、起るべき出来事にはすべて意味があります。いえ、すべて意味があるからこそ起るのです。ところが、人間には意味が先に与えられて、それから起る出来事というのはほとんどないに等しいのです。いつも出来事が起ってから、その意味を考えるのが人間です。いえ、起こってもいないものについての意味など人間には考えることもできないのです。
イエス・キリストの十字架と死も、そのことが起ってはじめて、弟子たちはその出来事の意味を深く考え、その答えを求めるようになったのです。
もっとも、神はメシアの死の意味について何も教えてこなかったわけではありません。旧約聖書イザヤ書の中でこうおっしゃっています。
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6)
イエス・キリストご自身もこうおっしゃいました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)
しかし、実際に事が起るまで、弟子たちはその意味を悟ることができなかったのです。
使徒信条を告白する人は、既に聖書を通して知らされるキリストの十字架とその死の意味を理解した人たちです。いえ、聖書を通して教えられるまでは、キリストの十字架とその死の意味を知らなかった人たちです。
使徒信条の中でキリストの十字架の死の事実を告げるとき、キリストの死が、わたしたちが受けるべき罰の身代わりであったと、心の中で告白しているのです。