2009年11月15日(日)ポンテオ・ピラトの下で
おはようございます。山下正雄です。
クリスチャンが何を信じているのか、もっとも簡潔にまとめたのは「使徒信条」と呼ばれる信仰告白の文章です。その使徒信条は、イエス・キリストが聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアから生まれた、ということを告げたあとで、ポンテオ・ピラトのもとで受けた苦しみについて語ります。
このポンテオ・ピラトという人物はちょうどイエスの時代にローマ帝国から派遣された五代目のユダヤ総督です。ピラトがユダヤの総督であったときに、イエス・キリストはこの男の下で裁判を受けることになったのです。おおよそ紀元30年頃のこと、イエス・キリストが30代の前半の頃の出来事です。
使徒信条はイエス・キリストの誕生から一気にピラトの下での苦しみに話題を飛ばしてしまいます。もちろん、四つの福音書に記されているキリストの生涯を取り上げるに値しないと考えているからではありません。そうではなく、イエス・キリストの苦しみと十字架と復活の視点から、キリストの生涯の意味を捉えようとしているのです。
誰の生涯であれ、その生い立ちを描く時には、時間の流れに沿ってできるだけ詳しく描くのは当然です。しかし、何を描き、何を描かないのか、その題材を取捨選択するのは、その人の生涯をどう意味づけするのかにかかわります。
そもそもイエス・キリストの生涯を描いた四つの福音書も、キリストの歩まれた道をすべて網羅しているわけではありません。どんな視点から題材が選ばれ、並べられているのかと問えば、キリストの受難と十字架と復活こそがイエス・キリストの生涯の意味を理解する鍵だと言うことなのです。イエス・キリストの苦しみについての理解が欠いているとしたら、どんなにイエス・キリストについて知っていたとしても意味がないのです。それは、ちょうど弟子のペトロがイエスに向かって「あなたはメシアです」と告白した直後に、イエスの受けるべき苦しみについて聞かされて、そんなことがあってはなりませんとばかりイエスを諌めるのと同じです(マルコ9:29-33)。
聖書はイエスを苦難のメシアとして示しています。使徒信条の告白も、イエスを苦難のメシアとして受け入れ、告白しているのです。
聖書が語る救いは罪からの救いです。「罪」という言葉はわたしたちにとっては嫌な響きの言葉です。誰も自分が罪深いとは認めたくはありません。せいぜい認めるとしても、それは人間にとって避けがたい事柄として、自分もまたその中に生きる一人の人間だということでしょう。自分は嘘つきであるかもしれないけれども、しかし、それは人間誰でも多少はそうなのだという理解なのです。自分は慈悲深くない人間かもしれないけれども、しかし、人間、ほんとうに慈悲深さを追求したら生きてはいけない世の中だということをどこかで感じ取っているのです。だから、慈悲深くない自分を認めたとしても、それを仕方のないことと諦めているのです。だれもこれ以上辛い生き方を進んで選びたくはないのです。
しかし、罪からの救いを実現してくださるイエス・キリストは、三重の意味で苦しみを味わってくださいました。一つには罪の世界そのものが生み出す悲惨と苦しみをわたしたちと共に味わってくださいました。二つ目は罪の世界にあって正義を実現する苦しみを味わってくださいました。三つめはわたしたちが受けるべき罪の当然の報いである罰を、わたしたちに代わって受けてくださったのです。