2009年11月8日(日)聖霊によりて宿り
おはようございます。山下正雄です。
「神の子がこの世にお生まれになった」というメッセージは、神話の世界でよく語られていることです。そういう意味で、キリスト教もそれらの神話の一つだと考える人もいることでしょう。
キリストの出生に関わる聖書の記述について人々がどういう判断を下すのであれ、キリスト教会の古い信仰告白である「使徒信条」は、キリストがこの世にお生まれになるのには、聖霊の神秘的で深い係わりがあったと語ります。
「主は聖霊によりて宿り…」と信仰告白の言葉は告げます。
「聖霊によって宿る」あるいは「聖霊によって身ごもる」という表現は聖書そのものに出てくる表現です。マタイによる福音書1章には二度「聖霊によって」神の御子主イエス・キリストが母マリアの胎内に宿ったことを告げています。
そして、もっと驚くべきことに、使徒信条は言葉を続けて「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」と語ります。ここで言われていることは常識では考えられないことです。常識ではありえないことであるからこそ、前もって「聖霊によりて宿り」という説明を先に加えているとも考えられます。
確かにマリアのもとにやって来た天使ガブリエルは、マリアの「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という問いに答えて「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と答えています。
もっとも、聖霊によって胎内に子供が宿ったり、処女であるマリアが子供を産んだり、ほんとうにありえる話なのだろうか、と議論し始めれば、何処までいっても話は平行線になってしまうでしょう。いえ、正直に言えば、クリスチャンでさえ、それを常識的な出来事とは思っていません。常識的な出来事でないから、説明もできないというのが正直なところです。
それなのに何故そんな馬鹿げた話をキリスト教は信じているのか、と問われれば、それは神にはできないことはないと信じているからです。
もっとも、神にできないことはないとはいっても、同時に神は無意味なことをなさらないと言うことも信じているからです。
結局「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」という告白は、なぜ、そうする必要があったのかということが説明されなければ、意味がありません。
聖書はイエス・キリストについて「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブライ2:17)と述べると同時に、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)と述べています。
神は罪を犯した当の人間が罪を償うことを求めています。しかし、悲しいかな、罪ある人間が自分の手で完全に罪を償うことはできません。そうであればこそ、まことの人間であり、同時に神としての性質を備えたお方が救い主として必要だったのです。
それは小手先の芸ではなく、もっとも深い神秘的な方法で神は救い主をこの世にお送りくださったという告白なのです。