2009年11月1日(日)我らの主イエス・キリスト

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教が何を信じているのか、簡潔なラテン語で書き表した「使徒信条」と呼ばれる文章の中で、「イエス」という人物は「我らの主イエス・キリスト」と呼ばれています。
この「我らの主イエス・キリスト」という言い方は「使徒信条」の中で初めて登場する言い方ではありません。すでに聖書の中に出てくる決まりきった言い方です。

第一に「イエスはキリストである」と告白されます。「イエス・キリスト」が「山下正雄」というのと同じようにひと繋がりの人名と思っている方には、「イエスはキリストである」という言い方には奇妙な感じがするかもしれません。しかし、「キリスト」というのは、固有名詞ではなく、「油を注がれたもの」というのが本来の意味です。「キリスト」とは特別な職務のために神が神の霊を注いで任命した者なのです。他の誰でもない、このイエスこそが神から特別の仕事を与えられたキリストであると告白するのがキリスト教なのです。
その特別な仕事とは、罪からの救いのためにこの世においでくださったと言うことです。

もう一つ、使徒信条は「イエス」というお方を「我らの主」であると告白しています。
「イエスは主である」という言い方も、聖書の中に登場する決まりきった言い方です。新約聖書の中にあるたくさんの手紙を書いたパウロは、その手紙の一つの中で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント12:3)と述べています。
「イエスは主である」という言葉は決して人間の思い付きではないのです。神の霊に導かれて、そう信じることが出来る人だけが「イエスは主である」と告白するのです。

ところで、イエスを「主」と呼ぶことには、どういう意味があるのでしょうか。「主」とは「主従関係」の「主」です。イエスを「主」と告白することは、イエスこそ自分が仕えるべき主人であることを認め、受け入れることです。天においても地においても、一切の権威を持っていらっしゃるのはイエス・キリストであるということです。

しかし、聖書が語るイエスが主であると言う理由はそればかりではありません。不思議なことに、イエス・キリストご自身はご自分が「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とおっしゃいます(マルコ10:45)。イエス・キリストはおおよそこの世の支配者とは違った形で、わたしたちの主人なのです。
パウロも同じようにその手紙の中でこう語っています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
フィリピの信徒への手紙2章6節から12節の言葉です。

「我らの主イエス・キリスト」と告白する時に、わたしたちのために命を捨ててくださったイエス・キリストを主であると信じ、告白しているのです。