2009年10月18日(日)お父さんの家を離れて

おはようございます。南与力町教会の山村貴司です。
イエス様のお話に、お父さんの家を離れて生きた放蕩息子の譬え話があります。

息子ははじめ、お父さんの家に住んでいました。その家はうるわしく、本当に豊かな富と財産に満ちていました。
けれどもある日、息子はお父さんからいただいた財産を全部お金に替えて、その家を離れて行きました。そして彼は家から遠く離れた見知らぬ土地で放蕩の限りを尽くしました。あっちへ行っては遊び、こっちへ行っては遊び、遊び三昧の生活。またいただいたお金で自分の好きなものを、あれもこれも買う、買物三昧の生活を送りました。
ところがある日、ふと財布に手を入れてみるとお金が全くなくなっていました。「あっ、お金がない!」彼は真っ青な顔になりました。けれども、もう時既に遅し、でした。彼は貧乏のどん底に落ち、その手には一つの財産も残っていませんでした。
この時、彼はある大切なことに気付いたのです。それは、自分が持っていたお金はみんなお父さんのものだった、自分が持っていたお金はみんなお父さんから与えられたものだった!と言うことです。彼のお財布にあったのはみんなお父さんのものであり、お父さんから全部与えられたものだった!ということです。

このお話は譬え話(ルカ15)で、息子は私たち人間、そしてお父さんは神様を示しています。そして、このお話は大切な事を教えています。それは、私たち人間は元来、自分自身の手の中に富を持っていないということ、元来、自分自身の手の中に恵みを持っていないということです!そして、私たち人間が今持っている全ての富はみな神様から与えられているものであるということ、私たち人間が今持っている全ての恵みはみな神様から与えられているものであるということです。
例えば私たちに与えられている家族のことをちょっと考えてみてください。それは元来、私たちの手の中にあったものなのでしょうか?これは元来、私たちの手の中にあったものではありません!それは神様の中にあったものであり、それが私たちに与えられているのにすぎません。
今日も朝起きた時に宿ったこの命、この命はどうでしょうか?実はこれも、私たちの手の中にあったものではありません!これも神様の中にあったものであり、それが私たちに与えられているにすぎないのです。
今朝も食卓に並んでいる食べ物、ジャガイモやニンジンなどもそうでしょう。これも、神様が私たちを愛して、私たちに与えてくださったものなのです。

聖書は、私たちが今朝、そして今いただいているものはどれもこれもみんな神様が私たちを愛して、私たちに与えて下さったものであることを教えているのです。
こんなわけですから、私たちが毎日神様のことを考えず、神様の家と、その食卓を離れて生きるということは、喜ばれる生き方ではないと言わなければならないでしょう。
どうか私たちが、今日も神様の家のただ中で生き、恵みに満ちたその食卓で生きることができますように。