2009年10月4日(日)目に見えないけれど

おはようございます。南与力町教会の山村貴司です。
作家の五木寛之さんがある対談で、近代の日本は「坂の上の雲」を求めた時代だったと言っていました。五木さんはこう言っています。戦後日本は一生懸命坂を登り、その上にある雲をつかもうとした。しかしバブル期を迎え、その雲が幻影であることを知った。この雲とは「経済」であり、「目に見えるもの」であった。そしてこれからの時代は坂を下る時代、すなわち見えるものから、目に見えないものに目を向ける時代になるだろう。そう五木さんは言っていました。

私たちはしばしば、目に見え、手でさわれるものに目を向けていきます。けれども、この世の中には、目に見えるものと見えないものとがあります。例えば身近なところでは、空気や光などがそれでしょう。これは目に見えないからといって存在しないわけではありません。これは目に見えませんけれどもとてもが大切なものです。あるいはまた、希望や愛と言ったもの、これらも目には見えません。しかしこれもとても大切なものです。

神様もそのようなお方です。神様も聖書によると、霊なるお方で目には見えません。しかしとても大切なお方です。
神様が霊であられる素晴らしさは、神様が私たちとどこにでも共にいてくださるということです。神様は霊であられるので、どこにでも共にいてくださることがおできになられます。
ここで、神様は霊であると言う時、それは何かふわふわ空中を飛んでいる無意識の存在のようなものではありません。霊とは神様ご自身のことで、それは確かな人格を持ち、私たちに語りかけ、私たちを慰め、励ますことのおできになる存在です。
聖書は、神様はそのようなお方として、私たちとどこにでも共にいてくださるお方だ。このように教えています。

聖書の詩編にはこのように書かれています。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができるでしょう。どこに逃れれば、御顔を避けることができるでしょう。天に登ろうとも、あなたはそこにおられ、陰府に身を横たえようとも、見てください、あなたはそこにもおられます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもおられ、御手をもってわたしを導き、右の御手を持ってわたしをとらえてくださいます。」 
このように、この詩編で、著者は逆説的に「どこに行けばあなたを離れることができるか」。このように語っています。しかしそれは、そのように語ることを通して、私たちは実はどこに行っても神様から離れることはできないのだ、私たちがどこに行っても御顔を離れることはできないのだ、ということを語ろうとしています。

まさに、聖書の神様は、私たちがどこに行こうとも一緒にいてくださるお方なのです。神様は私たちが天に登ってもそこに共におられます。また私たちが時に陰府に身を横たえようともそこにも共におられます。そしてみ手を持って私たちを導き、み手を持って私たちをとらえていてくださるのです。