2009年9月27日(日)天国への道

おはようございます。高知教会の久保薫です。
昔から物語の終わりは、ハッピーエンドが好まれます。日本の昔話も「めでたしめでたし」と終わるものが多いですし、テレビドラマも最後がハッピーエンドだと、視聴者も満足します。反対に、最後が悲しい終わり方になってしまうと、何となく満たされないような、裏切られたような気持ちになるものです。

しかし、子供達によく知られている童話でも、悲しい終わり方をしているものがあります。
たとえば、「マッチ売りの少女」は、冬の夜、マッチを売り歩く少女が、マッチを売って帰らなければ父親にぶたれるために、家に帰ることもできず、結局大好きだったおばあさんの夢を見ながら冷たい雪の中で死んでしまう、というお話です。
また、アニメ映画にもなった「フランダースの犬」では、貧しい少年ネロが、やさしいおじいさんを失い、村人からもあらぬ疑いをかけられ、最後に憧れのルーベンスの絵を見つめながら、冷たい教会の床で死んでしまします。
二つのお話には、共通点があるように思えます。それは、主人公達が、この地上で何もかも失っていること。そして、その反対に、天国にはやさしいおばあさん、おじいさんが待っていることです。ある意味、主人公達にとっては、地上の命を終えて、天国に移されることは、ハッピーエンドといえるかもしれません。実際、「フランダースの犬」の最後も、ネロと愛犬パトラッシュが喜び勇んで天に駆け上っていくような絵になっていました。天国に希望をもつものにとって、天国への道は喜びの道なのです。

さて、イエス・キリストを信じて罪ゆるされ、神様に受け入れられた人々、クリスチャンには、天国での永遠の生命が約束されています。聖書には「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と書かれています。福音の宣教者、使徒パウロも「一方では、この世を去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」といっています(フィリピ1:23)。

では、クリスチャンにとって、この地上での生活は意味がないのでしょうか。決してそうではありません。イエス・キリストは、人となって世に降られ、30年余りの時を世で過ごされました。その一番の目的は、十字架での罪の贖いですが、聖書はそのほかに、キリストが語られた多くの御言葉や御業を記しています。その中でキリストは、「私のくびきを負い、私に学びなさい」(マタイ11:29)、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マタイ16:24)と言われています。神様から離れてしまった私たち人間を、キリストは十字架によって再び神様に結び付けて下さいました。それはいわば、はじめに神様が私たちを造って下さった状態に戻ったようなものです。ですから、私たちはもう一度初めに戻って、神様が造られた目的のとおりに、神様の素晴らしさを指し示す生き方をしなさい、と言われているのです。それは決して簡単ではありません。

しかし、精一杯生きた後にこそ、天国の喜びが待っているのです。マッチ売りの少女ではありませんが、まさに、先に天に召されたおばあさんが、あるいは信仰の先輩たちが、「よく生きたね」と笑って迎えてくれるのです。地上の生活が苦しいと天国が待ち遠しくなります。けれども、神様が「よく生きた」と迎え入れてくださってこその天国です。いつも共にいてくださるキリストにより頼みながら、一歩一歩天国への道を歩きたいと思います。