2009年9月6日(日)弱い者と共に

おはようございます。山下正雄です。
最近読んだ小説にハッとさせられる言葉がありました。それは「真理は常に弱者の側に宿る」と言う言葉です。そして、作者は続けてこう記しています。

「真実が何処にあるか分からなくなったときは、弱者の位置に立ってものを考えてみると、筋道が見えてきます」

なるほど、世の中がおかしなことになるのは、たいてい力と数が幅を利かすときです。人間の気持ちとして、圧倒的な力の前では、間違っていることを間違っているとは言いにくいものです。
身近なところではパワーハラスメントがそうでしょう。人事を握る人から威圧的にものを言われれば、大抵の人は理不尽なことでも反論できなくなってしまいます。
世界規模で見てみれば、軍事力と経済力がそうでしょう。話し合いによって平和を実現すると言っても、いざ、交渉が決裂すれば、ものを言うのは軍事力や経済力の強さです。自分の国が優位に立つために、手っ取り早く軍事力や経済力を手にいれようとどの国もやっきになります。相手を力でねじ伏せることができるからです。
そして、力のあるところに数も集まるのは世の常です。「寄らば大樹の蔭」という言葉のとおり、誰もが力のある者に組したいと願い、数を形成していくのです。

もちろん、すべての力と数がいけないとは思いません。ただ、世の中がどこかおかしいと感じるときに、力のない側に身をおいて世の中のことを見つめなおしてみると、見えなかった筋道が見えてくるというのは本当のことだと思います。

今、自分自身のことを振り返ってみて、自分が世の中のどのあたりに立っているのかということを思います。
クリスチャンとしての自分を思うと、日本ではわずかに人口の一パーセントですから、この世的には数にも力にもならないと感じます。しかし、世界的に見ればキリスト教徒は世界の人口の30パーセント強を占めていますから、案外、力と数の側に組しているのかもしれません。もしそうであれば、知らず知らずのうちに、キリスト教の真理によってではなく、数によって相手を威圧してはいないかと反省させられます。
あるいは、日本人の一人である自分を考えるとき、先進国、経済大国日本に住んでいるのですから、自分の意識の中になくとも、力の側に身を置いています。そう自分自身を位置付けるときに、アジアの一国であることを忘れて、同じアジアの他の国々を知らず知らずのうちに見下すおかしなナショナリズムが頭をもたげてはいないかと思わされます。 健康で自立した生活を送ることができる自分を考えてみると、やはり、それだけで強い側の立場に自分がいることを思わされます。

こうして考えてみると、自分では意識していなくても、案外どこかで強いものの側に立っていることの方が多いように思います。ただ問題なのは、そのような中にあっても、弱い者の位置に立ってものを考えてみることができるか、その点こそが大切な点であると思います。

ところで、イエス・キリストは当時の人々から「罪人の仲間だ」と揶揄されていました。ここで言われる「罪人」とは必ずしも特別に罪人と言う訳ではありませんでした。強い立場の人々からつけられた軽蔑の呼び名と言ってもよいものです。弱い立場に立って見れば、そうした人々に対する見方も変わるものです。
イエス・キリストこそ最も徹底して低いところに身をおいてわたしたちを見てくださるお方です。思うに、本当に力のあるキリストだからこそ、もっとも弱い者と共に立ってくださることができるのではないでしょうか。