2009年8月23日(日)覚悟を決めたら、貫く

おはようございます。花見川教会の潮田祐です。
始めに神の御言葉であるローマの信徒への手紙14章7節〜10節を朗読いたします。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」

この世の中、様々な考え方、生き方があります。そのような千差万別の中で、私たちは生きております。しかし私たち人間は、弱さの故に、他者を比較したり、優劣をつけたり、無責任に干渉することを好みます。そのことを憂いてパウロは、10節にあるように、弱い者を受け入れ、兄弟をさばくな、と戒めます。そして、ここを一言で申し上げれば、『兄弟を裁くな、比較をするな、お互い尊重し、自分の生き方を曲げるな』。そうパウロは私たちキリスト者に投げかけていると思われます。これこそが、私たちキリスト者の生き方でございます。

私たちキリスト者は、キリストを信じている者であります。キリストを信じるとは、この我が命をキリストに預けることであります。キリストに我が命を預ける。つまり、この我が身体をすべてキリストに任せる、一任することであります。この我が命、わが身を一任したわけでありますから、生きるのも、死ぬのもキリストのものである、と言えることができるのであります。そして、この生き方を曲げるべきではない。一度、キリストを信じると洗礼もしくは信仰告白し、覚悟したなら、それを最後まで貫くことがキリスト者ではないでしょうか。そのことを今一度、再確認して参りたいと思うので御座います。

私たちキリスト者の道は、「一本道」である。迷うことはない。迷う必要もない。キリストにすべてを委ねて、キリストのために生きる、もし、キリストのためにこの命を落としたとしても、それは、それでよい。また、このことに誇りをもって生きる。私たち、お互いを尊重し合って、キリストに一切を委ねて生きているという誇りをもって、私たち生かされていることを覚えていきたい。キリストにすべてを委ねた、その一本道を決めたのなら、キリストにあって誇りをもって生きるべきであります。生きていかなければならないのであります。いや、生きていこうではありませんか。