2009年6月28日(日)独り子イエス
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教が何を信じているのか、簡単に言い表したものに「使徒信条」と呼ばれる短い文章があります。簡潔な文章ですが、しかし、キリスト教会が信じている事柄が見事に言い表されています。
その使徒信条の大きなまとまりの二番目には、イエス・キリストへの信仰が述べられています。
「我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず」
大きなまとまりの最初が「父なる神」についてであるとすれば、第二のまとまりはその独り子である神、イエス・キリストについてです。
しかし、キリスト教会は「父なる神」に次いで、「子なる神」というもう一つ別の神を信じているのではありません。父と子と聖霊の、三人ではなく、ただお一人の神を信じているのです。
さて、聖書はイエス・キリストを神の特別な独り子であると述べています。そのことを記した聖書の言葉は、わたしたちの頭を素通りしてしまうくらい高邁な言葉でそれを表現しています。コロサイの信徒への手紙には神の御子についてこう記されています。
「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイ1:15-17)
聞いただけで頭がくらくらとしてきそうなくらい深遠な真理です。しかし、すべてのものよりも先におられた御子について、いくら教えられたとしても、それだけでは遥か遠くの雲を掴むような話です。
わたしたちがこの神の独り子と出会うのは、決して抽象的な言葉の中ではありません。そうではなく、むしろ、具体的な救いの歴史の中でです。
聖書は別の箇所で、御子についてこうも語っています。有名なヨハネによる福音書の3章16節と17節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
わたしたちが神の独り子と出会うのは、父なる神が御子を救いのためにこの世に派遣してくださったからです。御子イエス・キリストが具体的に地上を歩んでくださったその歴史の中で、万物に先立って永遠にお生まれになった神の御子と初めて出会うのです。
神の永遠の御子イエス・キリストは、処女マリアを通してこの地上にお生まれになり、十字架での死と復活を通して救いの業を成し遂げてくださいました。この救いの出来事をとおして、わたしたちは神の永遠の御子を知り、この神の御子イエス・キリストを通して、わたしたちもまた神の子としていただいているのです。
「我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず」と使徒信条が述べているのは、そうしたイエス・キリストの救いの体験に基づいているのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
この御子を通してこそ、父なる神の愛に豊かに触れることができるのです。