2009年6月14日(日)何でもできるお方

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教会が自分たちの信仰を言い表した古い文章に「使徒信条」と呼ばれる簡潔な文章があります。この使徒信条がいつの時代に生まれたのか正確なところはわかっていませんが、四世紀後半頃には諸教会に普及していったようです。

その使徒信条の出だしは、ラテン語の語順では「我は神を信ず」という言葉で始まります。もちろん「神」というだけでは、聞く人によってはいろいろな「神」のイメージがあるでしょう。使徒信条は、キリスト教が信じる神をいくつかの言葉で修飾しながら、どのような神を信じているのかを説明します。

その神を修飾する言葉の一つは、「全能の」という言葉です。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

「全能の」というのは「何でもできる」と言うことです。「できないことはない」、「不可能なことはない」という意味です。
屁理屈を言えば、「では神は罪を犯すことができるか」という意地の悪い質問が出てくるかもしれません。しかし、「しない」ということと「できない」ということはまったく別の問題です。能力的にできることを全部してしまうことが、「全能」といういうことではありません。してはいけないことをしないという立場を貫き通すことも、神は全能であるということの意味なのです。
いえ、悪いことをしないというだけではなく、全能の神は悪を克服する力を持っていらっしゃいます。実際のところ、神が悪を克服することができず、罪の問題を解決できないのだとしたら、他のどんなところで神が全能者だとしても、それではまったく意味がありません。言い換えれば、神が何でもおできになるということは、わたしたちの救いについて最もその力が明らかになるということなのです。

イエス・キリストの弟子たちは、キリストが「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃったのを聞いて、思わず「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚きました。らくだが針の穴を通ることなどありえないのですから、弟子たちがイエス・キリストの発言に驚いてしまうのも無理はありません。
しかし、イエス・キリストは言葉をついでこうおっしゃいました。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

神が全能者であるということは、人間自身の力では到底達することのできない救いを人間に代わってもたらしてくださるということの中にこそ、最もはっきりと示されているのです。
神が全能者であるということは、哲学的な概念や観念ではありません。わたしたちが神とはこのようなお方であると、概念や観念から導き出した存在が全能の神なのではありません。神が何でもおできになるということは、神がイエス・キリストをお遣わしになって、わたしたちをお救いくださったという事実によって、初めて垣間見ることができるのです。
使徒信条の言葉は神を定義しているのではなく、むしろイエス・キリストを通して救いにあずかった者たちが、このような偉大な神にキリストの救いの業を通して出会ったと告白しているのです。