2009年5月3日(日)自分を低くする生き方
おはようございます。清和学園の後登雅博です。
さて、世の中では、とにかく人より上に立とうという考えが主流のようです。人よりも良い成績をとって、人よりも多くお金を稼いで、人よりも大きい家に住むことが素晴らしいように思いがちです。そして、ついつい、自分と周りの人とを比べてしまいます。かく言う私も、実はついつい周りの人と自分を比べてしまいます。あの先生は勉強が出来るなあ、とか。あの先生は授業が上手だなあ。あの先生は本当に偉いなあ、とすぐに思ってしまいます。そして、そう思うたびに、自分が惨めになります。ですから、もっとがんばらなきゃ、と思うのですが、2日もすれば、すぐにくたびれてしまうのです。
本当は、誰かと比べる必要はないのです。誰かと比べるなら、誰でもたいてい自分はだめだなあ、と思ってしまうことのひとつや2つはあるからです。誰かと比べるということは、人より上に立ちたい、という考えに支配されているからだと思います。そのような考えは、ひいては自分さえよければそれでいい、という考えにまで行き着くような気がします。
ところが、聖書の考えは少し違うのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と言っています。
自分が上に立とうというのではありません。むしろ始めから、自分は人よりも低くていいんだ、というのです。勝負で言えば、始めから負けていて良いんだ、というのです。負けていて良い、なんて言いますと、なんとも消極的な考え方だなあ、と思われるかもしれません。ですから、少し言い換えますと、そのままで良いんだ、ということです。勝負に勝ったからすばらしいのではありません。勝負に負けたとしても、それでもあなたは素晴らしい、ということです。つまり、ありのままのあなたで素晴らしい、ということです。
レイモンド・チャンドラーの小説で、探偵のフィリップ・マーロウが、「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」と言いました。このセリフは、強さよりも優しさに強調点があるように思います。つまり、他人を思いやる優しさこそ、人間にとって強さよりも大切だと言っているように思います。自分に弱さがあるからこそ、他人の弱さを思いやることが出来るとするなら、弱いと言うこともそれほど捨てたものではありません。
聖書は、自分を低くしなさい、と言っていました。そして、「それはキリスト・イエスにもみられるものです。」と続きます。
キリスト教で神様といえば、イエス・キリストです。しかし、イエス・キリストは決して自分自身を身分の高いものとは考えませんでした。イエス・キリストは神様ですが、むしろ自分自身を低くした神なのです。神であるのに、私達人間と同じようになりました。そして、特に、人々からさげすまれていたような人、人々から忘れられていたような人のために働かれました。キリストは自分自身を低くして、そのような人々に注意を払われたのです。
自分を低くするというのは、人より上に立とうと言う社会の流行からは外れるかもしれません。でも、強さばかりを追いかける生き方よりも、優しさを追求する生き方のほうが、より人間らしい生き方だと思います。社会の流行は変わります。しかし、聖書に即した生き方、愛や優しさを追求する生き方は、時代や国境を越える真実な生き方なのです。