2009年4月12日(日)復活のキリスト
おはようございます。山下正雄です。
きょうはイエス・キリストが死から甦られたことを記念するイースターの日です。十字架につけられ、死んで葬られたキリストは、三日目に死人のうちから甦られたと聖書は告げます。
あまりにもありえない話に、どう反応してよいのか困ってしまうかもしれません。実際、キリストの復活を告げた女性たちの証言を聞いて、弟子たちはそれをたわ言だと思って信じなかったと聖書には書いてあります(ルカ24:11)。弟子たちでさえそうなのですから、わたしたちがキリストの復活の話を聞いて、それをたわ言と思うのは仕方のないことかもしれません。
しかし、その弟子たちも復活のキリストに出会ってからは、たとえ人がそれを信じようと信じまいと、声を大にして復活のキリストを宣べ伝えたのです。それはただ単に自分の体験を否定されるのが悔しかったから、躍起になっていたのではありません。なによりもキリストの復活が人間にとって意味のある出来事であったからです。
パウロと言う人は、新約聖書の中に残された手紙の中でこう述べています。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(1コリント15:17)
「死」とは罪の結果であると聖書は教えています。この「死」が克服されなければ罪の問題が解決したことにはなりません。つまり、十字架の上で死なれたキリストが、その死を克服して命に甦られたからこそ、罪と死の問題に終止符が打たれたのです。そして、そのことを信じる信仰はキリストが甦られた事実の上に初めて成り立つのです。
こう言ってしまうと、何だかキリスト教は理論をこねまわしたような随分と難しい話のように感じられるかもしれません。しかし、そうなのではありません。根本を正していけば、結局のところ人間の「命と死」の問題に行き当たるのです。
人は誰でもいつか「命と死」について考えるものです。病に冒されれば、何とかして癒されて生き延びたいと思うのは、当然のことでしょう。人間いつかは死ぬのだから、治療を受けるのは馬鹿げたことだ、とは誰も思ったりはしません。命への執着や憧れがあるからです。そうでなければ医学そのものが発達してこなかったはずです。
キリスト教がキリストの復活を宣べ伝えて来たのも、難しい理屈や理論では決してありません。死を恐れ、命への憧れを持つ人間の心がそこにあるからです。キリストの復活はただキリストお一人の復活なのではありません。それを信じる者の復活を保証するのです。
ところで、復活と言っても、ただ死んだ人間が生き返るというだけでは、何の意味も希望もありません。いつかまた死ぬのであれば、そのような復活は一時の気休めに過ぎません。それは希望と言うには程遠いものです。生きるのならば永遠でなければ意味がありません。
しかし、永遠に生きるのであれば、幸せでなければ意味がありません。いつ終わるとも分からない苦しみが復活して延々と続くのであれば、死んだ方がましです。
もっとも、死んだら必ず苦しみから解放されるのでなければ、安心して死ぬこともできません。しかし、死がすべての終わりであるとは誰にも言えないことなのです。
「命と死」について、真面目に思いをめぐらせようとするならば、ぜひキリストの復活について頭の中から最初から除外してしまわないでください。むしろ、何故キリストが甦る必要があったのか、是非ご自分の耳で聖書の主張を聞いてみてください。