2009年3月29日(日)キリストにある新しい生命
おはようございます。高知教会の久保浩文です。
一昔前、人生齢五十年といわれていた時代がありました。それにひきかえ、現代の日本は、高齢化社会といわれて久しくなり、男女を問わず、平均寿命は、著しく伸びました。その原因として食生活の豊かさ、医療技術の向上などが挙げられますが、それに加えて、私たちの健康管理に対する関心の向上と情報の豊富さもあるでしょう。そして病気に罹らないよう普段から心がけるなど未然に病気を防ぐようになったことも要因として挙げることができます。
しかし、いくら医療技術が日進月歩のごとく進歩し、医学知識が向上したとしても、私たちは、いつかは死というものを迎えなければなりません。日本人は、「死」という言葉を口にするだけで、すぐ「縁起でもない」と耳を覆ってしまいます。そんなことは、人生の終盤戦に入ってから考えればいいことであって、今は、食べたり飲んだり、様々な娯楽に興じて人生を謳歌しなければ損だ、という考えもあります。しかし、いくら、問題を先送りしたり、忌み嫌ったとしても、厳しい現実から一時的に目を逸らしているだけであって、根本的に解決をしたわけではありません。
この問題に楔を打ち込んで、真に終止符を打った方、それが神の御子イエス・キリストです。聖書によると、私たちの先祖である一人の人が、神に背いて罪を犯し、その結果、罪が世に入り込み、罪からくる報酬として死がすべての人に及ぶことになったのです。死は、神の怒りと刑罰として人類にもたらされたものですから、人類にとって死が言いようのない恐怖と暗闇なのは当然です。このままでは、人間は全て神の怒りと呪いとしての死と滅びを待つだけです。しかし、慈愛に満ちた神は、私たちを罪の淵から救い出すために、ご自分の御子イエス・キリストを、しかも罪と汚れを知らない御方を私たちに代わって罪となさいました。私たちはイエス・キリストを私たちの救い主として信じることによって、罪の赦しを得て、神の前で義と認められるのです。
それだけではありません。神はイエス・キリストを三日目に死人のうちより復活されられました。このことは、イエス・キリストが死に打ち勝たれた証拠です。イエスは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、さらには、死の恐怖に囚われ、奴隷の状態にあったわたしたち人間を解放してくださったのです。
ですからイエス・キリストを、心から私たちの救い主として信じるならば、もはや、罪と刑罰としての死の恐怖におびえる必要はありません。キリストは死者の中から復活されたことによって、キリストを信じて眠りについた人たちの復活の初穂となられました。私たちは、キリストを信じることによって、罪に生きていた古い自分をキリストと共に十字架につけて、罪に支配された体が滅ぼされて、キリストの復活の命、新しい命に復活させられます。私たちの命は、キリストを信じたときから、すでにキリストの復活の命に変えられているのです。
確かに、私たちの現在の肉体は、年齢と共に弱ったり、傷んだりして衰えていくとしても、私たちの内なる人は、日々新しくされ、神の御国を受け継ぐに相応しいものにされていくのです。イエス・キリストは、「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と約束しておられるのです。