2009年3月8日(日)孤独からの脱却
おはようございます。高知教会の久保浩文です。
皆様は、「孤独」とか「ひとりぼっち」という言葉を聞いて何を連想されますか。「一匹狼」というと、仲間を求めず、誰も頼りにしないで、自分自身の力だけで行動する人のことで、何かしら、力強さ、逞しさを感じます。特にテレビドラマとか映画などに出てくる主人公などは、たとえそれが芝居の中の世界であっても、その多くが、スマートでかっこよく、憧れの対象となるものです。
しかし、聖書によりますと、私たち人間をお造りになられた神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われた、とあります。主なる神は人を深い眠りに落とされ、人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれました。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられたのです。そして、人は、女を見て、「これこそ、わたしの骨の骨、肉の肉」として自分のパートナーとして受け入れたことが記されています。ですから本来、人が人と共にいることは、良い事であったのです。しかし人は、罪を犯し、神から離れ、それと共に人との関係も正しく結べなくなってしまいました。
現代社会は、私たちにとってストレスの原因となる多くの要素が存在しています。私たちが、日常生活の中で、ストレスを覚える一番大きな要因は、人間関係から生じるものです。職場や学校など、およそ多くの人間が集まる場所での、様々な人間関係、交友関係から生じる軋轢が原因でストレスを抱え込んで心と体に大きなダメージをこうむるのです。
私たちは、自分のことを一番理解してくれる対話の相手、自分の長所、短所も含んだうえで自分の存在の全てを受け入れてくれる人を真に求めているのではないでしょうか。その人の前では、私たちは決して気負う必要も、飾り立てる必要もなく、全く自然な、ありのままの自分自身でいられるので、ストレスを抱えることもなく、むしろ、様々なことに傷つき、疲れを覚える身ではあっても、心底、癒されていくことでしょう。このような人は、理想かつ架空の人物でしかないのでしょうか。
そのお方は、神の御子イエス・キリストです。永遠の神の御子は私たちと同じさまでこの地上にお生まれになられ、罪は犯されませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同じように試練を受けて苦しまれました。私たちが経験したことは、イエスも体験されたことであり、私たちの心の奥深い内面の葛藤も悩みもつぶさにご存知なのは、イエス・キリストただお一人です。私たちには、真の対話の相手としてイエス・キリストがおられます。そして、キリストもまた、あなたを対話の相手として求めておられるのです。
「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」