2009年2月22日(日)恵みのうちに送り出される教会
おはようございます。山下正雄です。
わたしは16歳の時にはじめてキリスト教会の礼拝に行きました。そのとき印象深く残ったことの一つに礼拝の最後に牧師が信徒を祝福して唱える祝祷の言葉がありました。
両手を静かに上げて、厳かな声で牧師がこう祈ります。
「主イエス キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。」
この言葉は新約聖書コリントの信徒への手紙2の13章13節に出てくる言葉です。
キリスト教会の礼拝はほとんどの場合、この祝福の言葉で礼拝が閉じられます。初めて教会に行って、まだ右も左も分からない私でしたが、この厳かな祈りで締めくくられる礼拝が、実にピタリと決まったというのでしょうか、キリリと引き締まったというのでしょうか、とても厳粛な気持ちで、しかも心が何かから解放されたような軽やかな心地になりました。
その日以来、ずっと続けて教会に通うようになったのですが、他の何がわからないとしても、この祝福の言葉だけはいつも心に響きました。今になってもその感動はマンネリ化してしまうことがありません。
キリスト教会の礼拝について、「礼拝に集う」「礼拝に行く」「礼拝に与る」といろいろな言い方がありますが、わたしは礼拝は集まるという要素と同じくらい、そこから「散っていく」、「派遣されて行く」という要素が大切なように思います。そして、あの祝福の言葉を聞くたびに、神の恵みと愛と交わりのうちに、この礼拝の場所から遣わされていくような、押し出されていくような勇気をいただきます。日曜日ごとにこの祝福をいただいて送り出され、また、日曜日にこの場所に帰ってくる、そんな気持ちがします。そういう意味では、教会に「行く」のではなく、教会に「帰ってくる」と言ったほうが良いような感覚です。
それにしても、毎週こうして祝福の言葉で送り出されると言うのは、今までのわたしにはなかった経験でした。いえ、わたしに限らず、毎週祝福によって送り出されると言うのはこの世では経験しないことだろうと思います。むしろ恨みつらみを聞かされたり、悪口を聞かされたり、ということなら、この世では頻繁にあることです。そんなこんなでうんざりしてしまう毎日かもしれません。一週間に一度でも祝福を願う言葉をかけてもらえるというのは教会の礼拝に集う者の特権であるように感じます。
それでその礼拝の最後に唱えられる祝福の言葉ですが、一番最初にイエス・キリストの恵みが置かれています。恵みと言うのは代価を払って与えられるものではありません。無償だからこそ恵みなのです。いえ、イエス・キリストがわたしたちのかわりに特別な犠牲を払って勝ち得てくださった恵みです。その恵みがわたしたちと共にあるとは、なんと心強いことでしょうか。
祝福の言葉の二番目に置かれるのは神の愛です。愛されてこそ人は愛を知るものです。神の愛が今週もまたわたしたちに伴ってくださることで、愛される実感と共に愛する心をもいただくことができるのです。それはどんなことの中にも神の愛を味わうことができる心を育てる祝福の祈りでもあるように思います。
そして、最後に置かれているのが聖霊の交わりです。聖霊の交わりというのが一番ピンとこないかもしれません。ピンと来ないわたしたちにいつもより添ってくださるのが聖霊なる神です。その聖霊なる神に助け導かれる祝福をいただけるとはこの上ない力です。
あなたもぜひ、教会の礼拝でこの祝福の言葉をいただいてください。