2007年12月30日(日)年の終わりに祈る

おはようございます。安芸にあります芸陽教会の宮武輝彦です。皆様にとって、今年1年はどのような年だったでしょうか。旧約聖書の伝道者の書(コヘレトの言葉)にはこのように言われています。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」(12章1節)
ここには、わたしたちが喜びのうちに年月を数えていくには、神さまの絶えざる導きを心にとめることが教えられています。老年になることが「わざわいの日」とならないために、わたしたちは自分自身の人生に失望したり、悲観したりする前に、わたしたちを愛してやまないまことの神さまを知ることが大切です。

イエス・キリストがお生まれになって1週間がたって、ヨセフとマリヤは、幼子を連れて神殿のあるエルサレムへ行きました。それは、そこでこの幼子を神さまにおささげするためでした。そして、この神殿には二人の老年になる人がいました。一人の名をシメオンといい、人々の救いを願い求めながら、イエス・キリストに会うまでは死ぬことがないとの神さまの御告げを受けていました。もう一人の名は、アンナという女の人で、若いときに夫を亡くし、すでに84歳になっていた人でした。このアンナも、神殿を離れず、断食したり、祈ったりして、夜も昼も、神さまを賛美していました。シメオンもアンナも、この幼子イエスに近づいて、神さまを賛美して、人々に神さまの救いの喜びを伝えたのです。
ルカによる福音書2章29節には幼子イエスを腕に抱きながら、神さまを賛美するシメオンの歌がこのように書かれています。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」と。

ここには、ずっと心から待ちわびてきた救い主との出会いによって、老年となったシメオンの心の中に、尽きることない、神さまへのまったき信頼の思いがあふれています。イエス・キリストを知るとは、このシメオンと同じように、この目で神さまのくださる救いを見たようなもの、との深い信頼を自分のものとすることです。

それでは、わたしたちは、今、どのようにすれば、この深い信頼を自分のものとすることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストが世界中の人々を祝福しておられるほんとうの救い主であることを心から受け入れることにおいてです。わたしたちは今、肉眼でイエス・キリストを認めることはできませんが、聖書の御言葉に聞くこと、お祈りをよくささげること、そして、教会の礼拝に集うことによって、この神さまからの大いなる救いの祝福と恵みにあずかることができるのです。

イエス・キリストはわたしたちにこのように約束してくださいました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお授けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14章13-14節)と。

イエス・キリストはわたしたちにご自身の名によってお祈りするように教えてくださいました。それは、神さまの前にわたしたちが出ることができるのは、わたしたちの身代わりになるために十字架上で犠牲となられたイエス・キリストにおいてであるからです。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。とは、祈りの結びのことばです。この言葉は、このわたしたちのお祈りが聞かれていることを心の中で問いかけるよりも、はるかに確実にまことの神さまがわたしたちのお祈りを聞いてくださっていることを確かに認めます、との信頼をあらわすものです。今年1年の恵みを振り返りつつ、ぜひ、あなたも、神さまをイエス・キリストのみ名において呼んでみてください。そして、祈りは聞かれることを知ってくだされば幸いです。来年も皆様にとって、良い年でありますように。