2007年12月9日(日)処女マリヤに宿られたキリスト
おはようございます。安芸にあります芸陽教会の宮武輝彦です。今日もクリスマスにちなんで聖書の御言葉に耳を傾けていきましょう。
さて、イエス・キリストのお生まれになることは、はじめにどのようにして人々に知らされたでしょうか。ルカによる福音書第1章によれば、マリヤのもとを天のみつかいが訪ねて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言っています。このとき、マリヤがとまどっていると、「マリヤ、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・」ともうすぐ起こる出来事があらかじめみつかいによってマリヤに伝えられました。(1章28-31節)
マリヤはこのとき、ヨセフという男の人と結婚をする約束をし、神さまを畏れて身の清さを守っていました。ですから、マリヤは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」とみつかいに問い直したのです。しかしそのとき、みつかいは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と言い、「神にできないことは何一つない。」とマリヤに語りかけました。(1章35-37節)マリヤはこれを聞いて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、みつかいの伝えた神さまのなさることを心から受け入れたのでした。
キリストの教会では使徒信条という古くからとても大切にしている信仰を告白する言葉があります。そこでは、このマリヤに臨んだ神さまの祝福のことを「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」と告白しています。この主とは、イエス・キリストのことで、すべての世界を造られたまことの神であることを言い表しています。つまり、まことの神さまが、聖霊という神さまの特別なお働きによって、マリヤの胎内に人間の子として身ごもられることをなさったというのです。このことは人間の常識では計り知ることのできない、神さまの深いお考えによるものです。
聖書によれば人間は生まれながら、その心の内に、悪い思いがあることを教えています。しかもそれは、そのはじめの人間であったアダムとエバがエデンの園で神さまとの約束を破ったために、その悪い思い、罪深い心がその思いの内に入り、人間が死ぬ者となったことを教えています。実に、イエス・キリストはこの人間が持つ罪深さとは関係のない仕方でマリヤの胎内に宿ってくださったのです。
わたしたちは人生の旅路の中で、しばしば人生をやり直しできたらと思うかもしれません。そして、生まれたばかりの赤ちゃんに、自分のなし得なかったことを託するような思い、大きな希望を抱くこともあるでしょう。神のひとり子であり、その栄光に満ちておられたイエス・キリストが聖霊によって処女マリヤのうちにやどられたことは、わたしたちの人生をその初めからキリストがすべてやり直されたことを物語っています。だれもやり直すことのできない人生を、イエス・キリスト自ら、そのはじめから罪深さとは関係のない、完全に清い人生を歩みはじめてくださったのです。
ここにわたしたちにとって、本当に、かけがえないただ一つの希望があります。それは、どのような初々しい赤ちゃんも代わることのできない、ただ一つの特別な神さまの恵みです。それは人間はだれもが罪という聖なる神さまに対する負い目を負って生まれてくるからです。ただイエス・キリストおひとりだけが、わたしたちの身代わりとなって全く新しいきよい人生を歩み出してくださったのです。
新約聖書のローマの信徒への手紙5章15節ではこう言っています。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人のイエス・キリストの恵みと賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」
どうぞあなたもイエス・キリストをわたしの身代わりとなられた救い主と知ってくださり、その大いなる恵みと祝福にあずかってください。心からイエス・キリストの導きを願っています。