2007年11月11日(日)心にきざまれた聖書の言葉(2)
おはようございます。山田教会の門脇昭です。前回は旧約聖書の言葉を紹介しました。今回は新約聖書のなかの言葉をご紹介いたします。
時は今から60年ばかり前、現愛媛大学農学部の卒業をひかえて、就職活動をしていました。その時、すでに松山の教会で洗礼をうけ、教会員になっていました。そしてクリスチャン青年として、教会と縁の深い東雲(しののべ)学園にクラブ活動の手伝いにいっていた、そのような状態で、その高校の教師をしてほぼ内定していました。
ところが母親から手紙がとどき、そこには父親の病状がよくなく、出来るだけ早く郷里に帰るようにと書かれていました。私は石手川の川原で祈りました。とどまるか、かえるか。考えました。教師になる希望を神にゆだねて郷里に帰ることにいたしました。
そこで当時の高校校長をしていた西村素雄(すがお)先生に事情をはなして、おことわりにいきました。その時先生は質素な小住宅におられ、快くむかえてくださり、お別れに短冊に毛筆ですらすらと聖書の言葉を書いて、失意をいだいて郷里に帰ろうとしている私にくださいました。
その言葉は新約聖書のテサロニケの信徒への第一の手紙5:16−18に書かれている「いつも喜んでいなさい。たえ祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて神があなたに望んでおられることです。」でありました。
この言葉は私にとって慰めとなり、生活の指針となりました。その短冊はしばらく私の母屋の柱にぶらさげてありました。今は他人に貸してあり見つけることはできませんが、その言葉はしっかりと心に刻まれています。
その言葉を書いてくださった西村素雄先生は若いころ、松山から遠くはなれた宇和島に伝道に行かれました。道路はなく、鉄道もないとき、徒歩で伝道に行かれました。その時、峠を越える時つくられた歌が讃美歌に残されています。それは404番「山路こえて」です。 この歌と先生からおくられた言葉は忘れることはできません。
聖書の言葉は生きて働きます。そして何にもまさる生活の指針となります。私の若い頃に信仰の先輩、先達たちが送ってくれた聖書の言葉はその人の信仰生活を通じて深く刻み込まれます。単なる机の上の学びでなく、生活を通じて、その時その時に神様が与えてくださいました。感謝です。
クリスチャンスクールの教師をの望んでいた私は郷里にかえり、農業試験場に勤めることになりました。しかし神の不思議な導きで数年後、山田教会初代牧師橋本亘先生が専務理事となった清和学園に勤めることになりました。祈りがきかれました。神様のなさることは本当にに素晴らしいです。