2007年11月4日(日)心にきざまれた聖書の言葉(1)

おはようございます。山田教会の門脇昭です。私の生涯のなかで心にきざまれた聖書のことばを紹介いたしたいと思います。

時は60年ほど前、終戦後間もない時期、我が家にとっては大変なことがおこりました。その当時の世のなかは大きな変化が起こっていました。そのひとつ農地改革という大波が我が家にうちよせてきました。農地改革とは小作人制度を廃止して、農地を耕作者の所有としようというものでした。父は香川県の坂出市で長い間、現在で言えば国家公務員として働き、母はミシンを踏んで、洋裁の内職をして、貯金して郷里に送金して田畑を買って、退職後は小地主となっていました。ところが、努力して得た田畑が農地改革で失ってしまうことになりました。父は退職後は郷里にかえり農村振興のために世話役をしていましたが、そのようなことは考慮されず、非情にも所有していた土地を失うことになりました。父はそのショックで病床に伏し、3年後に天に召されました。

だが母は毅然として聖書の言葉をのべて立ち上がりました。私はその姿をみて驚き、目をみはりました。そのことは私の授洗の動機となり、一生の仕事の方向を見つけ、生涯の大半をクリスチャンスクールで働くことになりました。
その言葉は旧約聖書のヨブ記の1:21の言葉であることを知ったのはクリスチャンになってからでした。それは「わたしは裸で母の胎をでた、裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられる」でありました。
母は女学生の頃、友人にさそわれて教会にいき、イエス様を救い主と信じ、洗礼をうけてクリスチャンになりました。それ以来毎日聖書を読み、祈り、日記を書き、食事の前には祈り、年に2、3回は高知の教会に行っておりました。私は子どものときからずっとその姿をみながら大きくなりました。今思えばそのことは私に与えられた神様からの大きな恵みであったと感謝しています。

そして、いろいろ変遷はありましたが、不思議な神様の導きにより、聖書の御言葉を土台として経営されている清和学園で母親のように信仰をもって生涯をおくる女性を育てよう、これが最高の教育であると考え、そのことを一番大切なこととして教育の業にたずさわってまいりました。友人のなかには君は研究の道に進んだほうがよかったのにといってくださる方もいますが、私は全く後悔していません。むしろそのようなクリスチャンスクールで働いたことを誇りに思い、喜んでいます。卒業生が教会や、社会でよい働きをしている姿を見たり、聞くことは私にとって一番うれしいことであります。

聖書の言葉は生きて働きます。私たちが弱っているとき、強くしてくれます。聖書の言葉で立ちあがった母親は残された田畑で作物をつくり、77歳まで田舎生活を楽しんで生涯を終わり、天国にかえりました。
どうか聖書を読んで、イエス様を救い主と信じて、聖書の言葉をこころにきざみ、喜びの生涯をおくられることをおすすめいたします。