2007年10月21日(日)与える幸い

おはようございます。山下正雄です。
聖書には心を豊かにし、潤い豊かな生き方の指針となる言葉が溢れています。その一つにイエス・キリストがおっしゃったこんな言葉があります。使徒言行録20章35節の言葉です。

「受けるよりは与える方が幸いである」

わたしはこの言葉を聞くたびに、同じ聖書の中に記されたもう一つの言葉を思い出します。それは箴言30章15節の言葉です。

「蛭の娘はふたり。 その名は『与えよ』と『与えよ』。 飽くことを知らぬものは三つ。 十分だと言わぬものは四つ。」

わたしたちの生き方は気がつくと心のどこかで「ください。ください」「欲しい。欲しい」になっていることが多いものです。なるほど生きるためには本能的な欠乏感は大切かもしれません。お腹が空いたという感覚、睡眠時間が足りないという感覚、その感覚が狂ってくれば、人間は生きられなくなってしまいます。しかし、そういう欠乏感ではない欠乏感が人間を支配してしまうことがあります。どれだけ生活が満たされていても、まだ満足できない心。その結果、満たされたいための浪費。刺激を受けたいだけの無意味な企画。そんなもので世の中は溢れています。まるで箴言の言葉に出てくる蛭の娘たちのように口にする言葉は「与えよ」と「与えよ」ばかりです。

「ください。ください」「欲しい。欲しい」の生き方は、ただ、本人にだけその生き方の結果が及ぶのであれば、大きな問題ではないでしょう。しかし、限られた資源の中でみんなが同じように「ください。ください」「欲しい。欲しい」の生き方をしていれば、早い者が勝つ世界か、力のある者だけが幸福を手に入れる世界になってしまうのです。やがて、人々は傷つけあい、奪い合い、醜い争いに人生の大半を費やすようになるのです。一部の富豪が人生を楽しみ、残りの大半が貧しい暮らしを強いられるのを運命と思って諦めるしかない世界です。

イエス・キリストは「ください。ください」「欲しい。欲しい」の生き方に対して、与えることの幸いを教えてくださいました。与えることができると言うことには、大きな前提があります。それは、与える余裕があるということです。与える余裕があるというのは、経済的に満ち足りているということとは同じではありません。どんなに経済的に豊かになっても、人間は「ください。ください」「欲しい。欲しい」の生き方を変えることはできないのです。
むしろ、与える余裕というのは、心の満足から出てくるものなのです。心が満ち足りていなければ、心に平安がなければ、誰しも与える余裕を持つことなどできないのです。
与えることができる幸いは、言い換えれば、神から恵みをいただいている満足感を実感できる幸いなのです。神の愛を豊かに受けたと感じる人は、他人に豊かに愛を注ぐことが出来る人なのです。神の恵みをたくさん受けたと数え上げることができればできるほど、分け与えることのできる多くのものを発見できるのです。
神からたくさんのものをいただいている満足感が「与える余裕」をもたらし、与えることで神から豊かにいただいていることを確認できるのです。

イエス・キリストはすべてを与えよとはおっしゃっていません。すべてを与える幸いについて語ったのでもありません。たとえ、それがわずかなものであったとしても、わずかなものでも与えることができたということの中に、それをはるかに上回る神の恵みを見出す幸いなのです。