2007年9月30日(日)重荷を委ねて生きる(お話:岡本惠)
私は、北陸地方の福井県に生まれましたが、重荷ということで、思い出すことがあります。それは、小学校の一年生か二年生の頃に、一人のおばさんが、「天秤ざお」で、カニを売りに歩いておられた姿です。福井県ですから、その当時は、越前ガニと言っていました。今なら、ズワイガニと申し上げるとピンと来られるかもしれません。
おばさんは、それほど体つきのがっしりとした方ではありませんでした。それでも、前と後ろに、真っ赤にゆでられたカニを大きな竹のかごに入れて、「天秤ざお」で、歩きながら運んでおられました。
そのおばさんに会うたびに、「こんにちは」、と挨拶をしたものでした。しかし、おばさんに会うたびに、いつも、すごいなあ、と思ったものです。「天秤ざお」がしなるほどでしたから、あんなにたくさんの蟹を、よく運ぶことができるなあ、と感心したのです。
ある時、「おばちゃん、重くないの」と聞いたことがあります。すると、「そりゃあ、重いけどね」と言いながら、それでも、しっかりとした足取りで歩いていかれた後ろ姿を、今でも思い出します。
詩篇の55編23節には、このように書かれています。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。」
重荷を主に委ねなさい、と語られています。ですから、一つのことが分かります。それは、蟹を運んでいたおばさんのように、私たちは、誰でも、それぞれ、自分だけの重荷を負いながら、人生を歩んでいる、ということです。
その人だけの重荷がありますからこそ、聖書は、私たちに「重荷を主に委ねよ」と語っているのです。
私たちは、自分が元気な時には、重荷があっても大丈夫、自分で運んでいける、と考えます。そして、運び終えると、ほら大丈夫だった、と自分に言い聞かせるのです。
しかし、私たちが、これまでの自分の人生を振り返ってみますと、大丈夫、とは思えないで、不安な思いを持ったこともあるのではないでしょうか。
私も、病気になったことがあります。あるいは急にお金が必要になったのに、手元にお金がないということもありました。また、自分の将来の道を選ばなければならない時もありました。右を選ぶか、左を選ぶかで、自分の将来が大きく変わってしまう、ということもあったのです。
そのような場合、私たちは、それが重荷のように感じることがあります。自分の手に負えないように思えることがあるのです。
そのような私たちに対して、先ほどの聖書は「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えてくださる」と語っているのです。主である神様が、いつでも、あなたの重荷を代わって引き受けてくださる、と語っているのです。そして、重荷がなくなったあなたを、主が支えてくださる、というのです。自分が心配する以上に、主である神様があなたのことを心配してくださる、というのです。
私たちの心から重荷を取り除いてくださるお方がおられる。そのことは、私たちにとってどれほど大きな励ましとなることでしょうか。
どうか、今日、あなたが重荷と思っておられるすべてのことを、主である神様にお委ねください。神様が、あなたのすべての重荷を引き受けてくださり、あなたのこれからの人生を支えてくださるからです。