2007年9月16日(日)永遠に変わらないもの(お話:岡本惠)

小さい頃の故郷の思い出の中には、シロツメクサが野原一杯に咲いていた春のことがあります。一面のシロツメクサの中に寝転がって、青い空を見ていたときの光の暖かさは、未だに忘れることができません。
しかし、そのように一面、真っ白になるほどに咲いていた野原も、やがて、花の姿が消えていきます。夏が過ぎ、秋になりますと、茶色い野原になっていきます。それが、四季の移り変わりなのだと思いながらも、やはり、子供心にも、寂しさを覚えたものでした。
やがて、高校生になりました時には、人の命や人生の生き方について考えるようになりました。そして、何のために生きるのか、何のために、今、自分は生きているのか、それを考えるようになったのです。
そのような中で、自分にとって本当に変わることがないもの、これだけは、どんなに周りが変わっても変わらないもの、そのような人間の生きる規準について考えるようになりました。変わらないものはないのか、それだけで十分なものはないのか、そのような思いが、心の中にこみ上げてきて、さまざまな矛盾の中で傷ついたり、悲しんだりしたこともありました。

本当に私たちにとって、変わらないものはあるのでしょうか。聖書のペトロの手紙一 1章24節には、このように書かれています。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」

先ほど、春の草花は、そのまま咲き続けているのではない、ということをお話しました。ここには、人間そのものが、草のようだ、と語られています。花が、美しく咲き乱れるように、人間にも自分の可能性を信じ、さまざまな事柄に挑戦し、そして、自分の力で勝ち得たと思える時代があるものです。それは咲き誇った花の華やかさにも似ています。
しかし、この聖書には、そのような人間の華やかさはすべて、草の花のようだと語られています。草は枯れ、花は散る、と語られています。同じように、人間の華やかさもまた、やがて枯れることがあり、散るときがある。それは、草花と同じである、というのです。

しかし、先ほどの聖書には続いてこのようにも書かれているのです。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

私たちの環境も、私たち自身も、私たちの考えさえも、色々に移り変わっていきます。これこそ本当のものだ、変わることがないのだ、と考えても、色々な人々の考えによって変えざるを得ない、ということが度々起こります。
しかし、ここには、唯一、永遠に変わることがないものがある、と語られているのです。それは主の言葉、主である神の言葉である、というのです。
私たちは、いつも永遠に変わることがないものを求め続けています。そして、聖書は、その変わらないものこそ、「主の言葉」である、というのです。
その主の言葉については、「福音として告げ知らされた言葉」とも語られているのです。福音とは、喜ばしいおとずれです。あなたを本当の幸いに導くおとずれです。あなたの心に安らぎを与え、魂を救い、永遠の憩いを与える言葉です。
今日、永遠に変わることがないもの、主の言葉に心を留めていただくために、聖書をお開きください。そして、ご自分に語りかけられる神の言葉を心に受け入れてくださることを、心から願います。