2007年9月2日(日)心に与えられる実り(お話:岡本惠)
私は、秋になると、実りということや収穫ということについて考えます。
小学生の頃、汗だくになりながら、慣れない手つきで稲刈りをしたことがあります。まだ十分には乾いていない稲穂の匂いをかぎながら、やがて、脱穀機にかけられ、精米機に移されて、一粒一粒の白い米に変わっていく様子は、今でも目に焼きついています。収穫の秋、実りの秋は、私たちの心を豊かさで満たすときではないでしょうか。
そして、このような豊かさを、私たちは自分の心の中にも求めていることに、ふと気づくことがあるのです。
聖書の箴言の8章19節には、このように書かれています。「わたしの与える実りは、どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は精選された銀にも勝る」
実は、箴言という聖書は、知恵のことについて語られている聖書です。ですから、ここで語っている「わたし」も「知恵」のことを表しているのです。
それでは、知恵とは、いったい何なのでしょうか。それは、私たちが持っている色々な知識を、実際の生活の中で生かすことです。
私たちは、毎日の生活の中で、テレビを見たり、ラジオを聴いたりします。自然の移り変わりに目を留めたり、森の中にさえずる鳥の声を聞くこともあります。その中から知識を得ることもあるのです。
ですから、私たちは、自然の季節の移り変わりを見ますときに、自分の人生にも四季があるとことに気づくことがあるのです。
それでは、先ほどの箴言の中で語られていた知恵は、何を私たちに教えるのでしょうか。それは、人間にとって必要な、本当の心のあり方や、本当の人生の生き方です。
箴言には「わたしの与える実りはどのような金、純金にも勝る」と書かれておりました。
実は、ここで「わたし」と語っている知恵は、神様ご自身のことを表しているのです。つまり、神様は、真の知恵として、わたしたちの心に、純金に勝る実りを与えてくださると語っているのです。
「金」ということを考えます場合、求められるのは、できるだけ純度の高い「金」です。そのような「金」が、ある時にはイヤリングや、ブローチになります。また、金貨になる場合もあります。純度の高い金は、それほど価値あるもの、肌身離さず持っていたいもの、と考えられているのです。
それならば、箴言が語っている純金に勝る実りや収穫とは何なのでしょうか。それは、光を受けてきらきらと輝く純金以上のものです。すなわち、私たちの目を楽しませるために輝くものではなく、私たちの心を、きらきらと輝かせるものなのです。
そのような実りとは、神様が私たちに与えてくださる心の喜びです。毎日の生活の中で、いつでもどこでも、神様が私と共にいてくださる、という喜びです。そして、神様が、確かに私の人生を導いていてくださるという平安です。
あなたも今日、この心の喜びという実りを与えられて歩んでいただければ、と願います。