2007年8月19日(日)休ませてあげよう
おはようございます。山下正雄です。
聖書の言葉で安らぎを覚える言葉ベストテンを挙げるとすれば、イエス・キリストの次の言葉は間違いなくその中に入ると思います。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)
この言葉は教会の看板や印刷物によく用いられる言葉です。実際、この言葉を頼って教会の門をくぐった人の数は数え切れないくらいでしょう。
イエス・キリストがこの言葉を発せられたとき、具体的にどんな人が「疲れた者」「重荷を負う人」だったのでしょうか。いえ、それを知ったからといってそれほど役に立つとは思えません。むしろ、この言葉を聞いて自分がそうだと思える人は、皆イエス・キリストによって招かれていると思った方が良いのでしょう。もしかしたらわたしのことではないのかもしれない、などと遠慮する必要はないのです。
もっとも、疲れている、重荷を負っているといっても、肉体的な意味から精神的な比喩的な意味までいろいろとあるでしょう。それらは互いに密接にかかわりあっている場合もあります。肉体的な疲れから、心も疲れてくるという場合もあるでしょう。しかし、体は疲れていないのに心だけが疲れるということもあります。あるいはまた、宗教的な用語では、肉体でもなく精神でもない、魂の疲れというのもあるでしょう。ただ、それらの疲れや重荷を細かく分析することが、このイエス・キリストの言葉を理解する上で大切だとも思えません。
むしろ、ここではイエス・キリストがご自分の目の前にいる疲れた者、重荷を負う者に語りかけて下さったという事実が大切なのです。当たり前のことですが、「疲れた者、重荷を負う者」の存在に目を留めてくださり、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス・キリストは招いてくださっているのです。
イエス・キリストのお言葉からざっと2000年近い年月が流れました。多くの人がこのイエス・キリストのもとにやって来て、約束どおり休息を与えられました。しかし今なお「疲れた者、重荷を負う者」たちが大勢いるというのも事実です。いえ、イエス・キリストは今なお疲れた者、重荷を負っている人たちを教会を通してご自分のもとに招いていらっしゃるのです。
ところで、来なさいと招いた者たちに、イエス・キリストは二つのことを求めています。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」
これは招きの言葉に続く言葉としては、ちょっと不思議な感じがします。「休ませてあげよう」といいなながら、「くびきを負いなさい」「学びなさい」というのは矛盾しているように思えます。
しかし、イエス・キリストがそうおっしゃるのには理由があります。イエス・キリストは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とおっしゃるのです。
わたしたちとくびきを共にするイエス・キリストは柔和で謙遜なお方なのです。イエス・キリストはわたしたちのために命を捨ててまで歩んでくださるお方です。わたしたちの労苦をすべて背負ってくださるお方であるからこそ、キリストのくびきは負いやすく、荷は軽いのです。
キリストのもとに来て学び、キリストとくびきをともにするとき、ほんとうの安らぎを得ることができるのです。