2007年7月29日(日)父のもとに帰る
昔あるところに、父親と二人の息子がおりました。兄の方は働き者で申し分のない息子でした。ところが弟の方は、どうしようもない怠け者で、毎日遊びほうけていました。ついに弟は、「おやじの死ぬのなんか待ってられない」とばかりにさっさと財産を分けてもらい、家を飛び出してしまいました。最初のうちこそ面白おかしく暮らしていたものの、放蕩の限りを尽くした結果、瞬く間に財産はなくなり、気がつけば自分は無一文、ひもじいおなかを抱えて放浪する身となりました。やがてこの放蕩息子は、我に返り、自分の罪を悔い改めて父親のもとへ帰ります。もう息子と呼んでもらえなくてもいい、と覚悟をして帰った息子を父親は深い愛情で喜んで迎えるのです。
これは、イエス・キリストのたとえ話の一つです。教会では昔からこの話を「放蕩息子の話」と呼んで親しんできました。神から離れていた人が悔い改めて神のもとへ帰る時、神様がどんなに喜んでくださるか、ということを表わしているものです。わたしもこの話を子どものころから何度も聞いたり、読んだりしてきました。その中で一つ、何かひっかかっていたことがありました。それは、この息子はどういう罪を自覚して、何を悔い改めたのだろうか。ただ単に「父のもとに帰れば食べていける、生きていけると思ったからではないのか」ということでした。
聖書では彼の悔い改めの言葉はこうです。「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「おとうさん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と』さっと読むと、これは父の家の豊かな食卓が彼の脳裏いっぱいに浮かんでいるだけのようにとれます。
しかし、最近この言葉をよく読んでみて、それだけではないことに気がつきました。「あんなに大勢の雇い人に有り余るほどパンがある・・・」というこの言葉は、言い換えればこういうことだと思うのです。自分は、ここで自分の身一つ養うことができないでいるのに、父は、家族は言うに及ばず、あんなに大勢の雇い人みんなの生活を支え、守っているではないか。その父の偉大さに自分は気づかなかった。その父に、自分も育てられ、守られてきたのに、父を捨て、家を捨て、好き放題してきた自分は何という愚か者か。こう思ったからこそ、彼は「天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」というほどの罪の意識をもったのです。守られ、育てられてきたのに、それを忘れる、これが創造主である神を忘れた人間の姿なのです。
わたしたちは神様によっていのちを与えられ、日々生かされているのです。それに気づいて神様のところに帰るとき、神様はこの父親のように、喜んで迎えてくださるのです。もしかすると、一人では帰りづらいかもしれません。しかし、ここにはもう一人、隠れた登場人物がいます。それは、このたとえ話を話されているイエス・キリストご自身です。イエス・キリストご自身がいっしょに歩んで神様のところへ連れて行ってくださいます。神様にとりなしてくださいます。そして代わりに罰を受けてくださいます。いえ、すでに受けてくださっています。それがキリストの十字架です。このキリストの十字架によって私の罪が赦される、と信じて安心して父のもとへ帰ればいいのです。話はこう続きます。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」そしてこういって祝うのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15章)。