2007年7月22日(日)私を造られた神
おはようございます。高知教会の久保薫です。
三人の子供をもつ40代の主婦です。私は一人っ子として育ちましたので、日ごろ、三人の子供たちを観察しながら、「兄弟とは、こういうものか」と興味深く思うこともしばしばです。三人で一致団結するときもあれば、お互いに張り合う時もあり、喧嘩もしょっちゅうです。一番おもしろいと思うのは、一人ひとりの性格が全く違うことです。同じ親から生まれてこうも違うものか、と思うほどです。人間の性格というものが何によって形作られるかは、人によってさまざまでしょうが、少なくとも遺伝だけによるのではなさそうです。
自分の性格について悩む人は多いと思います。たとえば、もっと自分に積極性があったら、とか、もっと決断力があったら、とか、あるいは逆にもっと物事に慎重だったら、違った人生を歩んでいたのではないか、と思うのです。特に、思春期や青年期には、どうして自分はこんな性格なんだろう、と悩み、その原因を親や家庭環境などに求めずにはいられない、そういうこともあると思います。
私にも覚えがあります。私は今でもあまり社交的ではありませんが、もっと若いころはなかなか人と打ち解けられない性格が悩みの種でした。そんな時、書店をのぞくと、ちょうど、アダルトチルドレンということが盛んに言われていたときで、要するに、厳しすぎる親、反対に過保護な親、また、子どもをほったらかしにする親、そういう不完全な家庭が原因で、生きにくい人たちがいる、ということだったと思います。それを読んだ私には素朴な疑問がわいてきました。程度の差こそあれ、果たして完全な家庭などあるのだろうか。みんな何らかの欠けをもった家庭ではないだろうか。そして、どうしたらその中で健全な人格を築くことができるのだろうか、と。
そんな私に答えをくれた一つの聖書の御言があります。それは、イザヤ書46章3節4節の御言ですが、そこにはこうあります。「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」ここで「わたし」といわれているのは、神様です。世界の創り主である神様が、人間一人一人に呼びかけて、「わたしがあなたたちを造った」のだ、といわれるのです。親とも兄弟とも別個の人格をもった一人の人間として、神様が直接造ってくださったのだというのです。確かに、親や家庭環境も、神様の用意して下さったものですが、それによってその人の人生が決まるのではありません。その人の人生は,あくまでもその人自身のものです。私のいのちは、神様によって造られ、私の人生は、私自身が神様にどう導かれるか、にかかっているのです。私を造られた方は、同じように、私を変えることもおできになります。これからの人生で私がどのようになって行くかは、私にとっては、全く分からないことです。
しかし、神様はこうもおっしゃっています。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。」実際、私も頭にちらほらと白いものが見え始めているのですが、年をとると、余計に自分の性格がそのまま表に出るものです。そうなった時果たして自分はどうだろうか、とも思います。それでも、「心配することはない」といわれているのです。とことん神様が「担い、背負って」下さるのだから、安心して勇気をもって生きなさい、と励まされます。ちょうど歌詞にあるようにです。「わが行くみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど 主はみこころ なしたまわん。・・・」