2007年6月24日(日)神が心にかけてくださる
おはようございます。山下正雄です。
「心を配る」といえば、それは美徳であると考えられています。心配りの出来る人は、それだけ他の人のことを思う想像力に長けた人です。特に他人に対する配慮は聖書が命じる隣人愛にも通じるものがあります。しかし、同じ心を配るのでも、余計なものに心を配り始めると、それこそ心配になってしまいます。
人間というのは思い煩うことの多いものです。たくさんのことに心を配りすぎて、とうとう収拾がつかなくなって不安だらけになってしまいます。確かに、先々のことを考えることは大切なことです。しかし、先々のそのまた先々のことまで考えても、人間にとってはあまりにも不確定な要素がありすぎてしまいます。いくつもの可能性を抱えたまま、同時にたくさんのことを選択することは人間にはできないのです。だからこそ不安になったり心配したりするのも仕方ないのかもしれません。
心配な気持ちとはあれこれ考えすぎて何一つ安心な結論を見出せない心の状態です。心配しすぎが昂じると自分でも手がつけられなくなってしまいます。いっそうのことすべてを放り出してしまえたらどんなに楽だろうと思うことすらあります。しかし、何もかも投げ出してしまえば、無責任な生き方になってしまいます。手放せない問題だからこそ余計に心配なのです。そんな心配な気持ちに襲われるとき、聖書の言葉はわたしたちにこう語りかけます。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(1ペトロ5:7)
たくさんのことに心が引き裂かれてしまうのが思い煩いです。その放り出してしまいたい心配な気持ちを神に向かって放り出しなさいと聖書は言うのです。実際、ここで言われている「何もかも神にお任せしなさい」とは、「何もかも神に投げかけなさい」という言葉です。それは責任放棄するということではありません。一人の人間では抱えきれないたくさんのことへの心配を、わたしに代わって心に留めてくださる方に委ねることです。人間は一つのことでさえ心がいっぱいにいっぱいになるのですから、それ以上のことは神にすべてを投げかけてもよいのです。聖書の神があなたのことを誰よりも心にかけていてくださるからです。
子供の頃、一匹の猿の話を聞いたことがあります。壺の口から手を突っ込んで中のものを取ろうとした猿です。中のものをたくさん掴めばつかむほど、壺から手が抜けなくなってしまいます。必死で手を抜こうとしても、中のものを手放さない限り、抜くことはできません。
心配ごとを自分でたくさん抱えて、行き詰まっている状態はこの猿に似ているかもしれません。手のうちに握っているものを手放してしまえば解放されるのです。ただ、それを無責任に放棄するのではなく、神に委ねるのです。
たくさんのことに心を配りすぎて心配な気持ちになるときに、どうぞ、あなたのことを誰よりも心にかけてくださっている聖書の神がいますことを思い出してください。神は遠いところからただあなたの様子をうかがっているだけのお方ではありません。あなたのすぐ近くにいて、あなたの抱えきれないものを受け取ろうとずっと寄り添って歩んでいてくださるお方なのです。