2007年6月3日(日)万事を益としてくださる神

おはようございます。山下正雄です。
聖書の中にこんな言葉があります。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

この言葉はキリストの弟子であったパウロがローマの教会の信徒へ書き送った手紙の中に出てくる言葉です。代々のクリスチャンたちを励まし慰めてきた言葉ベスト10の候補を挙げるとすれば、必ず顔を出す言葉と言っても言い過ぎではありません。実際、多くのクリスチャンたちがこの言葉によって励まされてきたのです。

ところで、「運命」や「宿命」と言う言葉があります。「運命」や「宿命」という言葉が人の口をついて出てくるときは、大抵は人生が自分の目から見てうまくいっていないときです。壁にぶち当たってどうすることもできないと感じるとき、あるいは、何をやっても自分にとって悪い結果しかもたらされないとき、そういう自分の人生を運命のいたずらと考えたり、うまくいかないことが自分にとっての宿命と思うようになるのです。自分の人生をそうとしか思えなくなってしまうと、もはや希望をもって生きることが難しくなります。何をやっても空しいと感じられてしまいます。
逆に、何とか自分なりの道を切り開いていける人にとっては、「運命」や「宿命」という言葉はまったく自分にとって無縁の言葉です。自分の人生を運命や宿命のせいにしている人のことを、弱い人間とさえ思えて来るでしょう。もっと一所懸命努力してチャンスを掴むべきだといいたくなるかもしれません。

ではいったいどちらの人生観が正しいのでしょうか。なるほど、運命や宿命などと言い出したら、夢も希望もなくなってしまいます。すべてが決まっていると考え出したら、一所懸命に頑張る力もそがれてしまいます。どうせなら自分でいくらでもチャンスをつかめると考える人生観の方が積極的に人生を楽しめそうな気がします。
しかし、そう信じて歩みつづけることが出来る人は、やはり挫折や壁に直面したことのない人か、直面しても結局はそこから這い上がることの出来た人です。どんなに努力をしてもうまくいかないと言う人も現実にはいます。努力以前に自分の責任とは関係のないことでチャンスを奪われてしまうという現実もあります。人生を運命や宿命と感じる人は正に何度も挫折や壁に直面し、努力しても報われない人たちです。

確かに二つの現実があることは否めません。しかし、聖書はそのどちらの人生観にも組しません。チャンスをつかめなかった人を聖書は努力不足の結果だと一様に決め付けたりはしません。逆にチャンスを掴んだ人のすべてが努力の賜物であると褒めちぎるようなことも聖書はしないのです。では、結局聖書は運命や宿命を受けとめて、善きにしろ、悪しきにしろ現実に与えられたそれぞれの道を受け容れて歩むようにと勧めているだけなのでしょうか。
確かに聖書は神の深い計画や配剤について語っています。しかし、それは人間には計り知ることのできない事柄なのです。計り知ることのできない事柄に首を突っ込んでもますます混乱するばかりです。
むしろ聖書がはっきりと語っていることは、天地万物の創造者である神は、すべてが益となるようにと導いて下さるお方でもあるのです。そのことを受けいれるときにこそ、一方では希望をもって困難に立ち向うことができ、他方では努力する自分の力さえも神からのものと謙虚に受け止めることができるのです。