2007年5月20日(日)キリストの備えられる食卓
おはようございます。安芸にあります芸陽教会の宮武輝彦です。
今から2000年前、イエス・キリストは十字架の死から三日目によみがえられ、弟子たちに何度か現れてくださいました。新約聖書のヨハネによる福音書21章には、三度目に弟子たちに現れてくださった時のことが書かれています。
その時、ティベリアスという湖で、弟子のペトロとトマスたちが夜中に漁に出かけましたが、何もとれませんでした。夜が明けたころに、イエス・キリストが湖のほとりに立っておられましたが、それがイエスだとは分かりませんでした。湖のほとりからイエスが、「何か、食べ物がありますか」と呼びかけると弟子たちは「ありません」と教えてくださったのです。そこで、網を打ってみると、魚が多くて、なかなか網を引き上げることのできないほどでした。
このとき、弟子たちは皆、この人がゴルゴタの丘の上で十字架にはりつけにされながらよみがえられた御方であり、自分たちがお従いしていくお方、「主」だとわかったのでした。弟子たちは陸に上がってみると、炭火が起こしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもありました。主イエスは、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われ、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださいました。そして、主イエスは、パンを取って弟子たちに与えられ、魚も同じようにしてくださいました。十字架の死からよみがえられた主イエスとの朝の食事は、ほんとうに祝福に満ちたものだったでしょう。
主イエス・キリストは、十字架に至るご生涯の中で、同じ湖で、少年の持っていた大麦のパン五つと魚二匹を祝福されて、5000人もの人々に分け与えられたことがありました。この時にも、イエス・キリストは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)と言われました。まさに、ご自身が、天の父である神さまから遣わされたまことのパンであることを明らかにされたのです。この命のパンをいただくことは、わたしたちの魂の糧をいただくことです。
実に、イエス・キリストは、わたしたちのために日々の食事を備えてくださるだけでなく、この魂の糧を、聖書の言葉を聞くことによって与えてくださるのです。
昔、ダビデという人は、わたしたちの心も体も魂も養ってくださる神さまを信じてこのように歌いました。「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を備えてくださる。・・命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:1-3,5-6)
わたしたちの人生の主は、このイエス・キリストです。たとえ人生のさまざまな苦しみやつらいことがあっても、イエス・キリストが食卓を整えてくださり、また、聖書の言葉を聞く恵みにあずかるとき、わたしたちの心身と魂は共に養われ、日々、神さまの祝福を喜ぶように導かれていきます。
「天の父なる神さま、日々の糧を感謝します。」と食卓で祈りましょう。また、「天の父なる神さま、聖書の言葉によって魂の糧をお与えください。」と祈りましょう。そのとき、まことの神さまは、キリストの祝福の内に、わたしたちの心身を健やかに養い、神さまの恵みを喜び、感謝する魂をお与えくださいます。