2007年4月29日(日)祈る心
おはようございます。山下正雄です。
誰かが祈っている姿というのをじっくりと見たことがあるでしょうか。祈るということは人間が持っている宗教的な姿勢の中でも特に素晴らしいものだとわたしは思います。
そもそも祈るというのは、特定の宗教と結びついているわけではありません。世界中どこに行っても、祈る人の姿を見かけます。信仰など持たないと言っている人でさえも、祈る思いで時を過ごすということがあるのです。ただただ祈るしかないと思うときがあるのです。
人生には人間の手ではどうすることもできない局面というのを体験することがあります。ただ、見守るしかできないとき。ただ、歯がゆさを感じながらも待つしかないとき。そういう経験をするときに、つくずく人間の弱さや儚さを感じます。しかし、たとえ人間が弱く儚いものだとしても、空しい結果だけがこの先に待ち構えているのだとは思いたくないものです。たとえ、空しい結果がみえていたとしても、自分を超えた存在の力で、それを何とか変えたいと願うものです。その思いが祈りへと人を向かわせるのでしょう。
祈ってまで結果を好転させたいと願うのは、人生が大切だと思うからです。人生に見切りをつけ人は祈ったりしないものです。自分のために祈るのは自分を大切に慈しんでいるからです。誰かのために祈るのは、その誰かが大切でかけがえのない存在だからです。祈りのある世界というのは結局のところ、自分を大切にし、人をいとおしく思う世界なのです。そういう意味で、祈る姿に触れるときに、人間が持っている宗教的な姿勢の中でも特に輝いたものを感じるのです。逆に祈ることを忘れた世界は、慈しみも愛おしさもない寂しい世界です。
ところが、反対に、このもっとも素晴らしい宗教的な姿勢である祈りは、まったく逆にもっとも醜い人間の姿にもなってしまうことがあるのです。自分の幸福追求のためだけに、自分の力を超えた存在を利用しようとするあさましい人間の心です。自分の願いを神に押し付け、そのとおりにならないと、言うことを聞かない神を口汚くののしる態度です。
イエス・キリストは弟子たちに、祈る時にはこう祈りなさいと、短い祈りの言葉を教えてくださいました。祈る前からわたしたちに最も必要なものをご存知である神に祈る祈りです。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
イエス・キリストはわたしたちに神を父と呼びかけるようにと教えてくださいました。子供たちの必要を知り、必要なものを与える父親のように、神はわたしたちを慈しんで下さるお方です。その神の慈しみに信頼し、神の御心を願い求める祈りなのです。愛と平和に満ちた神の国が実現し、悪の支配から解放されるようにと願う祈りなのです。
きょう、この番組を聴いてくださっているあなたが幸せでいることができますようにと心からお祈りします。不安な思いから解放されて、安らいだ気持ちで過ごすことができますように。
そして、あなたも誰かのために祈るやさしい心を持つことができますように。