2007年4月1日(日)嘘と真実
おはようございます。山下正雄です。
きょうは4月1日、世の中ではエイプリル・フールと呼ばれています。年に一度、この日は嘘をついても許される日だとのことです。なるほどたまには冗談めいた嘘で誰かを驚かすと言うのは楽しいことかもしれません。もちろん、聞いた相手がほんとうに騙されてしまったのでは、楽しいどころか、単なる悪趣味でしかありません。
そもそも、エイプリル・フールの習慣がどこから始まったのかいろいろな説があるようです。よく耳にするのはフランスでの新しい暦の導入に端を発すると言う説です。フランスではシャルル九世の時代、1564年に新しい暦が導入されて、一年の始まりが1月1日となりました。それまでは3月25日が新年の始まりで、4月1日まで新年のパーティを開いてバカ騒ぎをしたそうです。ところが、新しい暦が導入されてからは春に新年のお祭り騒ぎがなくなったにもかかわらず、わざとパーティの招待状を出して人を騙してからかったことから、エイプリルフールの習慣が始まったと言われています。
この習慣が日本に入ってきたのは大正時代頃からだそうですが、推理小説作家の横溝正史は1921年(大正10年)に「恐ろしき四月馬鹿」という短編を発表していますから、その頃には「四月馬鹿」という訳語も日本には知られていたのでしょう。もっとも別の説によれば明治時代には知られていたとする人もいれば、もっと古く江戸時代には「不義理の日」として知られていたとする説もあるようです。
ところで、聖書の世界では、嘘をつくことはよろしくないこととして知られています。特にモーセの十戒では「偽証してはならない」と定められていて、裁判での偽証は重い罪と考えられてきました。こうしたキリスト教の伝統に影響されてきたヨーロッパの国々の倫理では、嘘は絶対に許されないものであるという考えが根強くあります。「嘘も方便」という格言をもった日本人の考え方とは対照的かもしれません。もちろん、自分の嘘を正当化するために「嘘も方便」という格言があるのではないことは誰もが知っていることだと思います。
そもそも、どうして嘘はいけないのでしょうか。もちろん、エイプリルフールのときにつく嘘は、冗談だと分かる嘘ですから、それまでも許されないというほどの厳格さをキリスト教が求めているわけではありません。嘘が許されないのは、真実な信頼の上に成り立っている人間社会を根底から揺るがしてしまうからです。冗談と分かる嘘は別として、嘘は多かれ少なかれ、嘘をつかれた側に被害が生じるものです。たとえ直接の実害が生じないとしても、信頼と言う絆を危うくする点で、やはり嘘は許されるべきではありません。もし嘘が許されるとなれば、みな疑心暗鬼の中で生活を送らざるを得なくなり、すこしも心休まるときがなくなるでしょう。そもそも人は疑いながら生きるのではなく、信じて生きるようにと造られているのです。
聖書の言葉に「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(エフェソ4:25)という言葉があります。確かに真実であれば何でも公言してよいとは限りません。しかし、真実がないところには誠実さが育ちません。誠実さがない社会には信じる心が育たないのです。互いに信じることができなくなれば、社会そのものが崩壊してしまうのです。
「嘘をついたことがない」という言葉ほど大きな嘘はないと言われています。それほど嘘は人間生活の中に浸透しているのです。しかし、そうであればこそ、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と勧める聖書の言葉は重みがあるのです。