2007年3月25日(日)つぶやくのではなく
いかがお過ごしですか。後登雅博です。
人間にとっての幸いとは何でしょうか。コヘレトは言います。「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」これは実にコヘレトらしい表現です。かつて、「わたしは生きることをいとう」と言った彼です。彼にとっては、生きることとは、実に労苦の多いものだったのかもしれません。
しかし、ここで彼は単純に、死ぬことを賞賛していると考えることはできません。彼が「既に死んだ人が幸いだ」と言うのは、現実を直視してのことです。つまり、「太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」からです。そのような虐げをうける人の涙を見た結果、それならまだ生きていくよりは、死んだほうがましだと言うのです。彼は、そのような虐げを見ても、それを押し留める力を持っていません。ですから、彼は消極的な決断を下すのです。「生きているよりは、死ぬほうがましだ。」彼は自分の力に余ることに対して、なんら働きかけをしようとしません。彼に出来るのは、ただ現実を受け入れるだけです。私たちも、どうしようもない現実に直面することがあるかもしれません。そのような時、私たちはいったいどうあるべきでしょうか。コヘレトのように、力なくつぶやくしかないのでしょうか。
彼は「既に死んだ人を幸いだ」と言いましたが、旧約聖書は、一般に死後の幸いについて語りません。例えば詩篇88篇にはこうあります。
「あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が、忘却の地で恵みの御業が、告げ知らされたりするでしょうか。」(詩88:11-13)
一般的に、イスラエルの民にとっての祝福とは、現世におけるものでした。ですから、コヘレトが死んだものが幸いだと言ったのは、痛烈な皮肉と考えられます。死後の幸いを語らざるを得ないほど、彼は現実に失望していることになります。しかし、新約聖書を知っている私たちにとっては、このコヘレトの皮肉さえ、そのままに祝福の言葉と読むことが出来ます。つまり、私たちにとっての死後の世界とは、決して悲しむべき世界ではありません。そこは、神と共に住む世界です。そこでは神への賛美が満ち溢れているのです。
コヘレトは「既に死んだ人を、幸いだと言おう」と言いました。私たちはこの言葉を、「主にあって既に死んだ人は、幸いだ」と読み替えることができます。私たちにとって、主にあってなされることは、全て幸いだからです。神様がともに居られることを知って、神の前に豊かに生きることが幸せなのです。
初めにも言いましたが、コヘレトは、虐げをうける人よりは、既に死んだ人を幸いだ、と言いました。イエス・キリストも十字架に架かるという虐げを受けました。まったく罪のない方が、十字架で死なれたのです。では、このイエス・キリストを知っている私達はどうしようもない現実を前にして、コヘレトのようにただつぶやくだけでよいのでしょうか。いえ、イエス・キリストを信じる人たちは、力なくつぶやくのではありません。そうではなく、イエス・キリストの勝利を信じて生きるのです。十字架にかかり、死から甦られた力を信じるのです。死から甦られたイエス・キリストは、コヘレトとは異なり、「虐げる者の手にある力を」押し留めることが出来る御方だからです。現実の労苦は絶えません。しかし、キリストを信じる人の歩みは、決して空しくはならないのです。